バースデーショートストーリー 立花希佐
「授業、始めるぞ」
窓から入り込む日差しは、春の香りがする。
教室にいる生徒全員の視線が集まる中、クォーツの担任教師、江西録朗は密かに思った。不思議なもんだ、と。
ユニヴェール歌劇学校78期生、入学してまだ間もない一年の雛鳥。
それでも既に強い存在感を放つ生徒はいる。
静かに、しかし強く。江西をじっと見つめる立花希佐もそんな生徒の一人だ。
「どうスか、一年は」
授業を終え職員室に向かっていると、楽しげな声が背中に届いた。
振り返ると、クォーツのアルジャンヌ、高科更文の姿。その少し後ろにジャックエース、睦実 介もいる。
「連れ立って稽古か?」
「来週入ったら二人で合わす時間なくなるんで。って、話そらさないでくださいよ」
ニッと笑ったフミの顔は、普段、彼が同世代に見せるものよりずっとあどけない。
「入学してまだ数日だぞ。俺から話せることは特にない」
「ひと目見りゃわかることあるでしょ、江西サンなら……サ?」
フミが探るような目で江西の顔をのぞき込む。
「……フミ、先生をあまり困らせるな」
それをカイが諫めた。
「カイだって気になるだろ。受験の子らとか」
「いずれわかることだ」
同意はせずとも否定はしない。カイも一年を意識しているのだろう。
「それにしても俺らが三年か」
フミの視線が持ち上がり、年齢に見合わない余裕と責任が落ちてくる。それはカイも一緒。
「俺らが一年だったときの継希さんと一緒だな」
開いた窓から、歌声。
自然とそちらを向けば、中庭に白田美ツ騎がいた。邪魔をするつもりはなかったのだが。
「……江西先生?」
視線に気づいた白田がこちらを見る。
珍しい。
いつもなら江西の視線を受け流すのに。
「あ、すみません、呼び止めて」
自分で自分の行動に驚いているのか、彼は気まずそうな表情を浮かべる。
「この前、ここで一年に会って。いや、だからどうしたって話なんですけど」
いつもは整頓されているだろう彼の頭の中、散らばる戸惑い。
「相手は?」
「えっ。ああ、立花です。立花希佐……」
先輩しかいなかった一年は、後輩がいる二年になる。
きっとこれから、今まで受け流してきたことを受けとめなければいけなくなる。
その時、彼は拒むのか、それとも。
夕暮れ時、数冊の本を抱えた世長創司郎を見た。
彼はこちらに気づくとぺこりと頭を下げ、そのまま去って行く。
ユニヴェール生として、なんら違和感のない姿。
彼が幼なじみの秘密を守ろうとしているなんて、誰も気づかないだろう。
クラスの中では一見大人しい彼だが、言葉の端々に独創性の欠片がある。
それを原石として磨くのか、ガラクタとして捨てるのかは本人次第。
地層の中に眠る化石を掘り起こすように、思考の中に眠る才能を自ら呼び起こすことができれば見える世界も変わるだろう。
「あれ、江西先生、お疲れ様でーす!」
入れ違うように明るい声が聞こえた。それだけで誰かわかる。織巻寿々だ。
「すごいッスね、ユニヴェール! ほんっと一日まるっと歌劇の授業! 一日があっという間! 同期もみんなすごくて! 歌がすごいヤツ! ダンスがすごいヤツ! 芝居がすごいヤツ! あと、なんかよくわかんないけどすごいヤツ! 何がとかじゃなくて、なんかスゲーみたいな!」
言葉は明朗なのに抽象的。ただ。
「立花がそれなんスよ。あいつ、なんか、スゲーすごい」
直感は真実の喉笛を噛む。
「いやー、どうなっちゃうんでしょうね、新人公演の脚本は!」
こちらのセリフだ、と言いたくなるようなことを自ら嘆いてクォーツの組長、根地黒門が職員室に入ってきた。脚本の提出期限はとっくに過ぎている。
「来月末にはもう本番、しかも主役はぴよぴよの新人ちゃん達、こうなったら江西の録朗先生に僕好みの才能を紹介してもらうしかないわね!」
さぁ、情報を渡しなさいと、根地が江西の机に手を置き身を乗り出す。
「似たようなことを高科にも言われた」
「あらー、なんて答えたのかしら」
「入学してまだ数日、俺から話せることは特にない」
「でも根地くんにはこっそり教えちゃうんでしょ、やっさしーい!」
心の強さを際立たせる根地。だから江西も表情を変えることなく「自分の目で見て判断したほうがいい」と返すが「様々な意見が欲しいのですよぉ」と食い下がってくる。
「だったら先生、これだけ」
根地が人差し指を立てて言った。
「……誰の名前を一番聞きました?」
考えるまでもなく思いつく生徒がいた。
「……根地だな。脚本のことで」
「いじわる!」
夜の山、掛かる羽衣、朧月。
退勤前の見回りがてら、江西は生徒名簿を片手にクォーツ寮へと足を向けた。新しい環境で暮らし始めた新一年生達の様子を見るために。
恐らく今は夕食を終え、ようやくの自由を味わっているところだろう。
「……ん?」
そんな中、クォーツの稽古場から一人歩いてくる生徒がいる。
立花希佐だ。
江西はそっと身を隠した。
月に照らされた希佐の足元、未だチラつく少女の影が見えたから。
ユニヴェールの校長、中座秋吏から彼女の話を聞いた日のことは今もよく覚えているし、不用意に思い出すこともない。
江西は彼女が通り過ぎるのを待つように生徒名簿をパラパラと開いた。
彼女を特別扱いするつもりはないが、特別な人間というのは自ずと目立つ。
だからこの数日、最も名前を聞いた立花希佐の欄を見る。
気がついた。
今日は四月八日
希佐の誕生日だ。しかし、ひとつ息を吸い少年の顔でクォーツ寮へと入っていった希佐の背中は、今日という日付よりもユニヴェールでの日々をただひたすら追いかけているように見える。
だったら、と江西は思うのだ。
自分という形を忘れるほど、この場所で夢を見れば良いと。
江西は生徒名簿を閉じて空を見上げた。
人が月を見つめる心は祈りに似ている。