誰もいないダンスルーム。ゆっくり息を吸いこめば、ひやりと孤独の味がする。
ユニヴェール歌劇学校。
歌劇の舞台を作るため、生徒たちが日々稽古に励むこの学校は、男役女役ともに男子が演じる、全寮制の男子校だ。
年に5回、学生公演があり、どのクラスが最も優れているかを競い合っている。
だからこそ、生徒たちはよりよい舞台を作るための努力を惜しまない。
今、ダンスルームで1人静かに呼吸を整えるフミ――高科更文もそうだ。
「透明」 をテーマに掲げるクラス 「クォーツ」 に所属し、今年、最上級生である3年生。
この学校では男役をやる生徒をジャック、女役をやる生徒をジャンヌと呼ぶのだが、立っているだけで人目をひく、どこか攻撃的な色香を持つフミは、女役であるジャンヌだ。
しかも、ただのジャンヌではない。主役を任される特別優れた存在、ジャンヌのトップであるアルジャンヌ。
責任は重いが、当の本人はいつもひょうひょうとしていた。
「……さて、と」
フミは手持ちの音楽プレーヤーを取り出す。再生を押すと、静寂を払うように音楽が流れはじめた。
目を閉じ、ゆらゆらと体を揺らしたのは、ほんのわずか。
深緋の瞳が開くと同時に、タン、と床を踏み打つ音が響き、高く跳躍したフミの姿がダンスルームの鏡に映った。
アルジャンヌはすべてにおいて高いレベルが求められるうえに、これなら誰にも負けないという武器が必要だ。
フミの武器は、ダンス。
男性らしい力強さと、女性のようなしなやかさが、ステップを踏むごとに入れ替わる。
音楽に身を委ね、無心へと近づいていくなか、フミの脳裏に浮かぶ人の影があった。
(……継希さん)
思い出を探すようにフミはまぶたを閉じる。
「……?」
そのとき、視線を感じた。
視線の主がフミを見たのはほんの一瞬で、その人はフミに声をかけることなく静かに去ろうとする。
(はぁ、難儀なヤツだね)
フミは音楽を止めると 「おい、なにか用事があるんじゃねーのか」 と呼びかけた。相手の足が止まる。
「気にせず声かけろよな、カイ」
「……邪魔になる」
言葉少なに返してきたのは、フミと同期であり同じクォーツ生でもあるカイ――睦実 介だ。
「ジャックエースなんだから、もっと偉そうにすりゃいいのにサ」
ジャンヌの最上位がアルジャンヌなら、ジャックの最上位はジャックエース。
2人はクォーツの主役コンビだ。
しかし、カイは否定するように 「いや」 と首を振った。
「今はジャックエースじゃない。『新人公演』期間中だからな」
季節は春。先日、狭き門をくぐり抜け、ユニヴェール歌劇学校に新1年生が入学してきた。
そんな彼らを主役に置き、お披露目もかねて行われるのが新人公演だ。
配役はすでに決まり、5月の公演に向けて舞台の準備をしている。
「それ言いだしたら俺もアルジャンヌじゃねーけど」
ふだんは主役を務めるフミも、カイと同じように新1年生のサポートに回っていた。
カイはまた 「いや」 と首を振る。
「お前はどこにいても、どんなときでも、クォーツの顔だ」
――たとえ同じ日に入学した同期だろうが、今は共に主役を任されるコンビだろうが、俺とお前は違う。
まるで影のように佇むカイが静かな眼差しでそう訴えかけてくる。
フミは口から零れそうになったため息を、気づかれないように飲みこんで肩をすくめた。
「で、用事は?」
「新人公演のダンスについて相談したいことがある、と」
「ああ、あの演出サンのいつものやつね。わかった、もうちょっとしたら行く」
カイは背を向けると 「邪魔をした」 と言い残して、ダンスルームから出ていった。
扉が閉まり、気配が遠くなってから、フミは、はぁ、と飲みこんでいた息を吐き出す。
「『ジャックエースじゃない』か。ったく、あいつは。……いや、あいつだけのせいじゃないか」
フミがアルジャンヌとして抜擢されたのは、入学して間もない1年のころ。
組んだのは二期上の先輩で、ユニヴェールの至高と呼ばれた天才ジャックエースだった。
無心で踊るフミの脳裏に思い浮かんだ人。
――立花継希。それが天才の名前。
ユニヴェール歌劇学校でまばゆい光を放ち舞台に立っていた継希。
今ではその人が高い壁となり、フミたちに影をさす。
フミは再び踊りだした。オルゴールの上でくるくると回り続ける人形のように。頭を空っぽにしたくて、くるくる、くるくると。
ダンスルームに満ちた孤独が絡みついて、凍えてしまいそうだ。
「……!」
突然、熱を感じた。
(ああ、あいつか)
ダンスルームの鏡を見れば、先日入学してきたばかりの新1年生が映っている。
ジャンヌ顔だが芯の強さを感じさせる面立ちをしたその新1年生は、邪魔をしないようにと遠慮しながらも、フミが踊る姿を見て、必死に技術を学びとろうとしていた。
その視線が熱くて心地よい。
伝染するように、くるくると回るだけだったフミのダンスに熱がこもる。
(……こいつなら)
自分たちのことも変えてしまうのではないか。予感なのか、希望なのかはわからない感情がわきあがる。
天才と呼ばれたあの人によく似た面影を持つ後輩だからこそ。
「……さて、と」
フミはダンスをやめて、振り返った。
「どうだった、お客さん?」
食い入るようにフミのダンスを見つめていた新1年生はハッと我に返って 「勝手にのぞいてすみません!」 と頭を下げる。
「ベつにいーよ、減るもんじゃないし」
フミは軽口をたたきながら、ゆっくりとその新1年生のほうへと足を踏み出した。