SPECIALスペシャル

CONCEPT ART & SHORT STORY

『ジャックジャンヌ』メインキャラクター達の
オリジナルショートストーリー&コンセプトアート

誰もいないダンスルーム。ゆっくり息を吸いこめば、ひやりと孤独の味がする。

ユニヴェール歌劇学校。

歌劇の舞台を作るため、生徒たちが日々稽古に励むこの学校は、男役女役ともに男子が演じる、全寮制の男子校だ。

年に5回、学生公演があり、どのクラスが最も優れているかを競い合っている。

だからこそ、生徒たちはよりよい舞台を作るための努力を惜しまない。

今、ダンスルームで1人静かに呼吸を整えるフミ――高科更文[たかしな さらふみ]もそうだ。

「透明」 をテーマに掲げるクラス 「クォーツ」 に所属し、今年、最上級生である3年生。

この学校では男役をやる生徒をジャック、女役をやる生徒をジャンヌと呼ぶのだが、立っているだけで人目をひく、どこか攻撃的な色香を持つフミは、女役であるジャンヌだ。

しかも、ただのジャンヌではない。主役を任される特別優れた存在、ジャンヌのトップであるアルジャンヌ。

責任は重いが、当の本人はいつもひょうひょうとしていた。

「……さて、と」

フミは手持ちの音楽プレーヤーを取り出す。再生を押すと、静寂を払うように音楽が流れはじめた。

目を閉じ、ゆらゆらと体を揺らしたのは、ほんのわずか。

深緋の瞳が開くと同時に、タン、と床を踏み打つ音が響き、高く跳躍したフミの姿がダンスルームの鏡に映った。

アルジャンヌはすべてにおいて高いレベルが求められるうえに、これなら誰にも負けないという武器が必要だ。

フミの武器は、ダンス。

男性らしい力強さと、女性のようなしなやかさが、ステップを踏むごとに入れ替わる。

音楽に身を委ね、無心へと近づいていくなか、フミの脳裏に浮かぶ人の影があった。

(……継希[つき]さん)

思い出を探すようにフミはまぶたを閉じる。

「……?」

そのとき、視線を感じた。

視線の主がフミを見たのはほんの一瞬で、その人はフミに声をかけることなく静かに去ろうとする。

(はぁ、難儀なヤツだね)

フミは音楽を止めると 「おい、なにか用事があるんじゃねーのか」 と呼びかけた。相手の足が止まる。

「気にせず声かけろよな、カイ」

「……邪魔になる」

言葉少なに返してきたのは、フミと同期であり同じクォーツ生でもあるカイ――睦実 介[むつみ かい]だ。

「ジャックエースなんだから、もっと偉そうにすりゃいいのにサ」

ジャンヌの最上位がアルジャンヌなら、ジャックの最上位はジャックエース。

2人はクォーツの主役コンビだ。

しかし、カイは否定するように 「いや」 と首を振った。

「今はジャックエースじゃない。『新人公演』期間中だからな」

季節は春。先日、狭き門をくぐり抜け、ユニヴェール歌劇学校に新1年生が入学してきた。

そんな彼らを主役に置き、お披露目もかねて行われるのが新人公演だ。

配役はすでに決まり、5月の公演に向けて舞台の準備をしている。

「それ言いだしたら俺もアルジャンヌじゃねーけど」

ふだんは主役を務めるフミも、カイと同じように新1年生のサポートに回っていた。

カイはまた 「いや」 と首を振る。

「お前はどこにいても、どんなときでも、クォーツの顔だ」

――たとえ同じ日に入学した同期だろうが、今は共に主役を任されるコンビだろうが、俺とお前は違う。

まるで影のように佇むカイが静かな眼差しでそう訴えかけてくる。

フミは口から零れそうになったため息を、気づかれないように飲みこんで肩をすくめた。

「で、用事は?」

「新人公演のダンスについて相談したいことがある、と」

「ああ、あの演出サンのいつものやつね。わかった、もうちょっとしたら行く」

カイは背を向けると 「邪魔をした」 と言い残して、ダンスルームから出ていった。

扉が閉まり、気配が遠くなってから、フミは、はぁ、と飲みこんでいた息を吐き出す。

「『ジャックエースじゃない』か。ったく、あいつは。……いや、あいつだけのせいじゃないか」

フミがアルジャンヌとして抜擢されたのは、入学して間もない1年のころ。

組んだのは二期上の先輩で、ユニヴェールの至高と呼ばれた天才ジャックエースだった。

無心で踊るフミの脳裏に思い浮かんだ人。

――立花継希[たちばな つき]。それが天才の名前。

ユニヴェール歌劇学校でまばゆい光を放ち舞台に立っていた継希。

今ではその人が高い壁となり、フミたちに影をさす。

フミは再び踊りだした。オルゴールの上でくるくると回り続ける人形のように。頭を空っぽにしたくて、くるくる、くるくると。

ダンスルームに満ちた孤独が絡みついて、凍えてしまいそうだ。

「……!」

突然、熱を感じた。

(ああ、あいつか)

ダンスルームの鏡を見れば、先日入学してきたばかりの新1年生が映っている。

ジャンヌ顔だが芯の強さを感じさせる面立ちをしたその新1年生は、邪魔をしないようにと遠慮しながらも、フミが踊る姿を見て、必死に技術を学びとろうとしていた。

その視線が熱くて心地よい。

伝染するように、くるくると回るだけだったフミのダンスに熱がこもる。

(……こいつなら)

自分たちのことも変えてしまうのではないか。予感なのか、希望なのかはわからない感情がわきあがる。

天才と呼ばれたあの人によく似た面影を持つ後輩だからこそ。

「……さて、と」

フミはダンスをやめて、振り返った。

「どうだった、お客さん?」

食い入るようにフミのダンスを見つめていた新1年生はハッと我に返って 「勝手にのぞいてすみません!」 と頭を下げる。

「ベつにいーよ、減るもんじゃないし」

フミは軽口をたたきながら、ゆっくりとその新1年生のほうへと足を踏み出した。

太い幹から伸びる無数の枝葉が、空を遮り光を隠す。木の根は苔むし、雨が降ったわけでもないのに湿り気を帯びたシダの葉が、ときおり上下に揺れている。

「……」

そんな薄暗い山のなか、静寂に溶けこむように佇む人が1人。

周囲には 「カイ」 と呼ばれているその人――睦実 介[むつみ かい]は、チチチとさえずる鳥の声を追うこともせず、じっと景色を眺めていた。それこそ、土に根を張り、何十年、何百年という長い年月を刻んできたこの木々のように。

古来より信仰の対象にもされてきた大伊達山[おおだてやま]

本来、人の領域ではないこの神聖な山が、多くの人々を迎え入れ華やかな歌劇を披露するユニヴェール歌劇学校の背後にそびえ立っているのだから不思議な話だ。

カイも生徒の1人、今年、最上級生である3年生。所属クラスはクォーツだ。

「透明」 をクラステーマに掲げるクォーツは、まだ色のついていない舞台未経験者が入学してくることも多い。かつてのカイもそうだった。

「……入学、か」

季節は春。クォーツにも新しい生徒たちが入学してきた。

――君の目から見て、今年の新1年生はどうだい、カイ?

ふと頭をよぎった言葉は鮮明だ。

それもそのはず。今日、しかも、ほんの少し前にかけられた言葉だからだ。

相手は根地黒門[ねじ こくと]。独特な経歴を持つ彼は、クォーツの組長を始め、脚本執筆や、演出といった舞台にまつわるさまざまなことを請け負っている。

才能豊かな男だが、そのぶんクセも強く、眼鏡の奥にある瞳はいつだって面白いものを探していた。

今日もそうだ。

カイは根地との会話を思い出すように、目を閉じる。

「……俺から見た、新1年生?」

「そう!新人公演に向けて懸命に羽ばたこうとしているひな鳥の姿が、君の目にどう映っているのか気になってね」

なにか意味があって聞いているのか、それとも、気まぐれか。

わかっているのは、逆らったところで時間を失うだけということだけだ。

カイは確認するように新1年生たちを見回す。

(あの3人……)

目にとまったのは、なにか相談するように固まっている3人組の1年だった。

1人はどこにいてもパッと目を引く明るさを持つ、織巻寿々[おりまき すず]

もう1人は控えめながらも思慮深い眼差しでしっかり相手の話を聞いている、世長創司郎[よなが そうしろう]

そして、そんな2人の間をとりもつように、真摯な表情でなにか話しているのは――

「ああ、面白いよね、彼ら」

目ざとく気づいた根地がメガネをかけ直して彼らを見る。

「入学したてのころなんて『我こそが1番、蹴散らせ同期!』になりやすいのに、あの子たちはいつも3人一緒だ。良くも悪くも目立ってる」

根地の口角が陽気にあがる。

「はてさて、吉と出るか、凶と出るか……」

メガネの奥の瞳が値踏みするように新1年生たちを見た。

「……あまり試すようなマネはするなよ」

カイは警告するように言う。

「もー、僕だってヒマじゃないんだよ?最高の舞台を作るためにしか時間は使わないさ!」

「……」

「おやぁ、『それが心配なんだ』って顔してるね。僕のことが信頼できないの、ジャックエース?」

根地の言葉に思わず顔をしかめた。

男役も女役も男子生徒が演じるユニヴェール歌劇学校では、男役をジャック、女役をジャンヌと呼んでいる。恵まれた体格と身体能力、それに誠実な演技力を持つカイは、ジャックの中でも主役格であるジャックエースを任されていた。

ジャンヌの主役格であるアルジャンヌと並んで、クラスの顔とも言える存在なのだが、同期でアルジャンヌを任されているフミ――高科更文[たかしな さらふみ]とは違い、カイはいまだにその名が体に馴染んでいない。

「俺は、あくまで器だ」

アルジャンヌを華として、それをより美しく映えさせるための器。高科更文を輝かせるための影。それが自分の役目だとカイは思っている。

そういう形にカイを仕立て上げたのが、この根地黒門だ。

「なにかご不満?」

「……いや」

フミを支えることに不満はなく、クォーツのために自分の持てる力を全て捧げる覚悟もできている。

ただ、ジャックエースという冠が、自分にはひどく不釣り合いに思えるのだ。

入学してからずっとアルジャンヌを演じ続けてきたフミという才能を知っているからこそ。

カイはもう一度、新1年生の3人組に視線を向ける。

舞台について真剣に話し合う彼らの姿が対等に見えて、どこか羨ましかった。

ただ、その均衡がいつ崩れるかはわからない。

「新人公演じゃ、誰が結果を残すかねぇ」

ざわざわと緑の匂いを含んだ風が通り抜けた。

カイは目を開き、穏やかに降りそそぐ木漏れ日を眺める。

人に夢を与えるために、まばゆい光を放つユニヴェールは、カイの目には眩しすぎるときがあった。

だからこうやって、ありのまま存在する自然に身を置き、1人息をつく。

(……俺は俺がやるべきことをやるだけだ)

そう思いながらまた目を閉じようとしたところで、カイの視界のはしに、突然、白いなにかがよぎった。

「……? ああ……」

見ればシダの葉の隙間から白いイタチが顔を覗かせている。

白イタチはカイのことをチラッと見てから、山を下るように駆けていった。

大伊達山にはさまざまな野生生物が住んでいる。そのなかでもイタチは、大伊達山の山岳信仰に絡められ、大事にされてきたらしい。

そうはいっても、人間に寄りつくことはほとんどないのだが――

「わっ!」

白イタチが消えた方角から人の驚く声が聞こえた。

「あの声は……」

カイは声がしたほうへ足を向ける。すると、カイの後輩であり、稽古場で相談し合っていた新1年生3人組の1人がいた。

一緒にいた織巻寿々や世長創司郎よりもずっと小柄で、喉におうとつはなく、成長期を感じさせない。

その後輩の足下を、白イタチが人懐っこくクルクルと回っている。

白イタチはひとしきりはしゃいだあと、満足したのか跳ねるように去っていった。

それを見送ってから、新1年生が台本を開く。新人公演の台本だろう。

なにかうまくいかないことでもあるのか、難しい顔で同じページを見つめている。

大きな瞳に、小柄で華奢な体つきは、女性も男が演じるユニヴェール歌劇学校おいて貴重な存在だ。当然、ジャンヌとして生きていくのだろう。

(……だが)

舞台への情熱を滲ませる横顔には、ジャンヌだけでは収まらない強さも感じる。

ジャックエース候補や、アルジャンヌ候補は、1年のときにだいたい決まる。

才能がある人間というものは、入学したときから周りとはどこか違うものだ。

カイの同期で、アルジャンヌであるフミがそうだったように。

それでいうなら、あの1年は――

「……? あっ、カイさん、お疲れさまです!」

カイの視線に気づいたのか、後輩がパッと顔をあげる。独特な柔らかい空気がカイの頬を撫でた。

1人になるためにここにきたのだが、この後輩は一緒にいても落ち着ける雰囲気を持っている。

カイは口を開いた。

「わからないことがあるなら、つき合うが?」

舞台は巨大な装置。ジャックとジャンヌはその歯車。僕はそれを組み立てる職人だ。

薄暗い部屋のなか、真昼のような輝きを放つパソコンだけが騒々しい。

壁には従来の能力以上に本を押しつけられた本棚。床には入りきれず飛び出した本たちが要塞を作っている。

「ええっとー」

その中の1冊をコーヒー片手に難なく引き抜いて、パソコンのディスプレイをのぞき込んだのは、部屋の主。

ユニヴェール歌劇学校の3年生。少々訳ありのクォーツ所属、クラス組長を務める根地黒門[ねじ こくと]だ。

同期にはクォーツのアルジャンヌを務める高科更文[たかしな さらふみ]と、ジャックエースの睦実介[むつみ かい]

根地はといえば、自主性が重んじられるユニヴェールの校風を惜しげもなく利用し、クォーツの脚本・演出はもとより、役者としてもジャックとジャンヌともに演じられる多才さで舞台を支えている。

今も、新人公演に向けて調整を行っている最中。パソコン画面のスクロールにあわせて動き回る瞳と同じように、頭の中も[せわ]しない。

そのせいだろう。来訪を告げるノック音が妙に強く響いたのは。

「はいはい、どーぞ!」

現実に戻った根地が返すと 「やっとか」 という重みを持ってドアが開く。

「失礼します」

色素の薄い肌に、その色を淡く溶かしたような柔らかい髪色。

純然たる可憐さを持つその人は、伏していた瞳を持ちあげる。

「呼んでおいて無視ってどういうことですか。こっちだってヒマじゃないんですよ」

非難の声の鋭さは、容姿の印象からはほど遠い。

「すまなかったね、白田[しろた]くん!」

白田美ツ騎[しろた みつき]。根地の一期下の後輩で今年2年生。

彼の姿が人に与える印象そのままに、女役であるジャンヌを任されている。

「だって、ちゃんと来るなんて思っていなかったからさ」

悪びれず言うと、彼の視線がますます鋭利になった。

「1年の後輩を伝書鳩にしておいて、なんですか、その言い草は」

そう、まだ真新しいクォーツの1年に 「白田くんを呼んできて」 と軽く頼んでいたのだ。

「だって、カイには頼むなって言ってたじゃない、君」

「当たり前でしょ。うちのジャックエースを、そんなくだらないことに使わないでください」

「だから、代打で新1年生……」

「それもやめろって言ってるんですよ。……で、要件は?」

「あの子どうやって君のこと動かしたの? どんなワザ使ったの?」

「……用もなく呼んだんですね。失礼します」

「ああ、ちょっと待って!」

背中を向けようとした白田に『僕が悪かったです』と両手を上げる。

白田が表情を曇らせたのは、根地がいっさい反省していないことを知っているからだろう。

「……で、要件は?」

根地は 「ちょっとかぶっちゃうんだけど」 と前置きしてから本題に入った。

「君から見て、今年の1年はどう?」

白田が眉をひそめる。

「フミさんやカイさんにも聞いてませんでした、それ?」

「おさすが、その通り!」

白田が言うとおり、フミやカイにも同じ質問をしていたのだ。

「うちのアルジャンヌとジャックエースの答えがあれば、それでじゅうぶんでしょ。どうして僕まで……」

「なにをおっしゃる! 君は我がクォーツのトレゾール、花形じゃないですか!」

ユニヴェールでは高い歌唱力を持つジャンヌをトレゾールと呼んでいる。

白田もその名を冠するにふさわしく、抜群の歌唱力でクォーツの舞台を[いろど]っていた。人気も高い。

「いやー、君がクォーツ所属で良かったよ。ロードナイトが欲しがる人材だからね」

ロードナイト、と聞いて白田が押し黙った。

ユニヴェールは全部で4つのクラスに分かれており、クラスごとに特色も違う。

クォーツは『透明』というクラステーマが示すように、まだ色のついていない舞台未経験者が多く入学してくるクラスだ。

クラスとしてハンデがあるように思えるかもしれないが、高い資質を秘めた才能が入学してくることも少なくはない。この白田だってそうだ。

公演内容はクラスの状態に合わせ、歌、ダンス、芝居、なんでもやる。

一方で、クラスのカラーがハッキリしているクラスもある。オニキスとロードナイトがそれだ。

なにせオニキスは力強いダンスを売りにしたジャック中心のクラス、ロードナイトは絢爛豪華[けんらんごうか]な歌唱力を前面に押し出したジャンヌ中心のクラス。

白田の能力を考えれば、ロードナイトに入って活躍していてもおかしくない。実際、ロードナイトの組長は白田にご執心だ。どのクラスもトップを狙うのに必死なのだから――特に今は。

「で、どうなのよ、今年の1年生」

ここにきて初めて根地は声のトーンを落とした。

「このままじゃよろしくないってのは君だってわかってるでしょ? ほら……『アンバー』」

出した名は、ユニヴェールにある4つのクラスのうちの1つ。ただ、同等に語るのは難しい。

白田もその名の重みを感じとったようだ。思案するように首元に結ばれた空色のタイをいじってから、口を開く。

「……目につくのは3人です」

白田の言葉は端的だ。

まずは1人目。

織巻[おりまき]。よくユニヴェールに入れたなってくらい歌唱レベルは低いけど、歌声にはまっすぐな強さがある」

そして2人目。

世長[よなが]。あいつはあいつで、なんでユニヴェールに入ったんだってくらい奥手で緊張し続けてるけど、歌の意味を人一倍考えている。ただ……」

明朗に答えていた白田が、いったん言葉を止める。

「どっちも下手[へた]だから目についただけかもしれないです」

「それで白田くんに注目してもらえたのならラッキーじゃない、彼ら」

軽口を叩けばすぐに睨まれた。

「で、3人目は?」

最後の答えを求めると、白田は息を吐く。

「根地さんに伝書鳩にされた、あいつですよ」

根地は『やっぱりそうか』と心の中で呟いた。

「てことは伝書鳩さんも、織巻くんや世長くんのように山のような問題のなかひとかけらの輝きが?」

「いや、あいつは……」

白田は逡巡[しゅんじゅん]したあと、慎重な口ぶりで言う。

「まだ、よくわからないです」

「よくわからない、……というと?」

「そのままですよ」

それ以上の言葉は持っていないと彼は言うのだ。

「もういいでしょう? 失礼します」

要件はすませたと白田がドアへと向かう。

「あっ、最後にいいかな! 伝書鳩さんはどうやって君のことここにつれてきたの?」

クラスに所属しながら群れることを好まず、人と距離がある白田。誰かの言うことを素直に聞くタイプではない。

彼の後輩ともなればなおさらだろう。

「…………」

投げかけた言葉の返事は沈黙。退席のためのドアが開く。

今日はこんなところか。

「……特別なことはしていませんよ」

一瞬で気持ちを切り替えた根地に、返ってくることはないと思っていた返事。

「稽古が一息ついたところで、あいつが『根地先輩が呼んでいます』って言っただけです」

根地の口から、「へぇ」 と驚き混じりの声が漏れる。

「それって……白田くんが答えてくれそうなタイミングを見計らってお願いした、ってことだよね?」

彼は歌っている間はもちろんだが、何もしていないように見えるときも頭の中で歌唱曲の調整をしていることが多い。本当の意味で一息ついているタイミングを計るのは相当難しいのだ。

それに、歌とは別に、声をかけられたくない時間も抱え込んでいる。

そんな彼の特質を理解した上で、声をかけたのか、あの伝書鳩は。

「……それってかなり『特別なこと』じゃない!?」

根地は感心して頷く。すると白田が振り返り 「白々しい」 と制するような口ぶりで言った。

「全部計算どおりでしょ」

彼の目は『だまされませんよ』とでも言うかのように鋭利だ。

「伝書鳩にされたあいつが根地さんの予想通り働くことも、僕がここに来るのも、目につく1年に僕があいつの名前をあげるのも、全部わかってたはずだ。ただの確認作業ですよ、こんなの」

白田の言葉には断言するような強さがある。

だから根地はにっこりと笑った。

裏なんてありませんよとでも言うように屈託なく、そして嘘くさく。

白田は苦々[にがにが]しい表情を浮かべ、これ以上、付き合ってられないとでも言うようにドアをくぐる。

「人を測る物差しに僕を使わないでください」

会話の余韻を残すことなくドアが閉まった。

「……いやはや、白田くんは賢いね」

遠くなる足音を聞きながら、根地は笑いをかみ殺す。

「それにしても……これだけしっかり白田くんとの距離感を計れるなら、なにかと使いどころがありそうだ、あの伝書鳩くんは」

舞台にも反映できる繊細さだろう。根地の頭のなかで様々なイメージがあふれ出す。世界が1つ生まれる勢いで。

「しかし『まだ、よくわからない』ねぇ。フミとカイも同じこと言ってたな」

どうやら得体の知れないところがあるらしい、あの伝書鳩は。

かくいう根地にとっても、まだ見えぬところが多い後輩である。

「舞台は巨大な装置で、ジャックとジャンヌはその歯車……僕はそれを組み立てる職人だ。どんな才能の形をしているのか、見せてもらうよ」

根地は持ったままだったコーヒーをひと口飲む。とうに冷えきったコーヒーが、今の体にはちょうど良かった。

目まぐるしく変わる日々をガラス越しに眺めるように、いつも距離を作っていた。

「俺たちが新人公演の舞台に立ってから、もう1年たつんだな」

そんな言葉が聞こえてきたのは、昼休憩になってほどなくの教室だった。

なんてことのない、ざわめきのひとつで終わるはずだった言葉は、ユニヴェール歌劇学校、クォーツ2年の生徒たちの心を掴んだようだ。「懐かしい」 と同意する声が重なりあう。

「いろいろ変わったよなぁ、俺たちも、他クラスの同期たちも」

菅知[すがち]がオニキスのアルジャンヌになるとは思わなかったよ。あんなに地味なのに」

「ロードナイトは、いよいよ御法川[みのりかわ]がジャックエースか。あそこのジャックエースは大変だろうな」

名前があげられていく2年を代表する生徒たち。そのメンバーはいつも同じ。

白田[しろた]は予想通りトレゾールになったよな」

その名が出るのと同時に、クォーツ2年の生徒たちの視線が自分に向く。

(……うるさいな)

椅子に腰掛け、頬杖をつき、楽譜を眺めていた白田美ツ騎[しろた みつき]は、大衆の視線にざわめき以上の騒々しさを覚えた。

白田は彼らと同じクォーツ所属の2年生。高い歌唱力を持つジャンヌだけが名乗れる、トレゾールだ。

手を加えずともジャンヌとして成立する面立[おもだ]ちも相まって、人々から注目を集める存在である。

だが、遠慮のない視線は白田にとって気持ちの良いものではない。

白田は顔を上げると、同期たちの視線を[][こう]から受けとめるように彼らを見た。

涼しげな眼差[まなざ]しを、鋭利に変えて、じっと。

その迫力に負けたのか、同期たちがあわてて顔をそらす。

「いやぁ、うちの期も人材は豊富だよなぁ~」

彼らは白田を見ていたことをごまかすように、再び会話に戻った。

しかし、この会話がどれだけ不毛なことなのか、白田は知っている。
白田は楽譜を手に立ち上がった。

「でもなぁ……『あいつ』がいるからな」

会話の終着点はいつも同じ。

「去年の新人公演、アンバーの舞台で『あいつ』を見た瞬間、絶望したよ」

陽気な雰囲気が一転し、重くのしかかるような空気が教室を浸す。

「あいつがいる限り、俺たち『77期』は……」

白田たち2年は、ユニヴェール歌劇学校の歴史のなかで、77期生という位置づけにある。

その77期生は全員、たった1人の同期の存在に呪われていた。

(……うちの期に限ったことでもないか)

1つ上の期である76期の先輩も、これからは78期の後輩も。

白田は教室を出て、なにもかもシャットアウトするようにドアを閉める。

(……くだらない)

集団という渦から逃げるようにやってきたのは、ユニヴェール歌劇学校校舎のすぐそばにあるテラスだった。

新緑におおわれたこの場所は、花の香りが入り交じり、穏やかな空気をまとっている。木陰に入ると、背中をそっと撫でるような優しさがあった。

「ふー……」

白田は肺の奥にたまったものを吐き出すように深呼吸してから、ベンチに腰掛け、楽譜を開く。

新人公演の歌唱曲だ。

入学したばかりの新1年生主体の公演だが、白田たち上級生も舞台に立つ。

1年のサポートをしなければいけないぶん、白田にとっては厄介[やっかい]だ。

白田は楽譜をじっと見つめ、曲の姿を探るように頭の中で[かな]で始める。

「……ん?」

だがそこに、騒々しい足音が混ざりこんできた。

右往左往しているそれは、白田のほうへと近づいてくる。

「あれっ、白田先輩! お疲れさまです!」

足音以上に響く、耳を押さえても突き抜けてくるだろうまっすぐな声。

性格がにじみ出た[ほが]らかな顔で挨拶をしてきたのは、白田と同じクォーツ所属、入学して間もない新米ジャックの織巻寿々[おりまき すず]だ。

「うるさい」

「あっ、すみません!」

理不尽な怒りをぶつけると、スズは律儀に謝ってきた。

白田の同期たちのように視線をそらすこともない。

白田は目尻の力を緩める。

「なに探し回ってんの? 同期?」

「え、なんでわかったんスか!?」

「うるさい」

「わっ、すみません!」

パッと口を押さえるスズを見て、白田は息を吐く。

「ウロウロしながら歩いてるからだよ。探してるのは世長[よなが]とあいつだろ」

スズはこくこくと頷いてから、口を開く。

「あいつらとテラスでセリフ合わせする約束してたんです」

スズは気を遣って声のトーンをいくらか落としていた。それでも、妙に響く声だが。

「……同期とよくそんなに一緒にいられるな」

入学して間もないこの時期は、良い役をとるために同期と競い、摩擦が生まれやすい。その摩擦が、卒業するまで続くこともある。

白田の脳裏に、同期たちの姿がよぎった。

「いい奴らですから、あいつら!」

そんな[]れ合いとは無縁そうな笑顔でスズが応える。

白田は 「ふぅん」 と曖昧な返事を返した。

「そんじゃ、邪魔してすみませんでした! 失礼します!」

スズがぺこりと頭を下げて駆けていく。
足音が遠くなり、静かになった。

「……元気なもんだねェ」

見計らったかのように別の気配があらわれる。

「フミさん」

「よぉ」

いつからそこにいたのだろうか。

静けさを濁すことなく、クォーツのアルジャンヌ、高科更文[たかしな さらふみ]が姿を見せる。

ジャンヌである白田にとっては直属の先輩だ。

「ミツが後輩と話してる姿見たら、クロの奴、はしゃぎそうだな」

「やめてくださいよ……」

フミが『クロ』と呼ぶのは、クォーツの組長である根地黒門[ねじ こくと]

彼らはともに天才肌で気が合うようだが、白田にとって根地はなにかと面倒な先輩である。

心底いやそうな顔をした白田を見て、フミがクク、と笑った。

フミは白田の隣に並び、スズが駆け去ったほうを眺める。

「織巻は誰にでも気さくに声をかけられるみてーだな」

「なにを言われてもめげませんしね」

「あいつがいると場が明るくなるよ」

「いるだけで騒々しいです」

白田がそう言ったところで、遠くから 「ここにいたのか!」 という声が聞こえてきた。スズが同期と合流したらしい。いなくても騒々しい男だ。

これから同期とセリフを言い合い、ますます騒がしくなるのだろう。

そう思っていたのだが、不思議なことにスズの声が薄れ、聞こえなくなった。

場所を変えたのだろうか。

「お前に声かけてくるの、織巻だけじゃないんだろ?」

「え、ああ……」

人を近づかせない雰囲気を持つ白田。

機嫌を損ねないように距離を置く後輩が多いなか、スズのように声をかけてくる1年がもう1人いる。

入学当初からジャンヌ候補として名前があがっている、柔和な顔をした1年生。

スズが世長とともに、いつもつるんでいる同期でもある。

(僕がここにいることを織巻から聞いて、あいつが場所を変えたのかもしれないな)

他人を不快に思うなら拒絶すればいいだけ。

しかし、そうではない場合はどうすればいいのか。

それを考えると、少し疲れる。

「……ま、ミツはボチボチやればいいさ」

ゆったりと余裕のある口ぶりでフミが言う。白田には見えない未来が見えているかのようだ。

その考えに身を[ゆだ]ねるように白田は 「そうですね」 と小さく返した。

舞台の上で輝く人を見た。そのオーラに導かれるように目指し、くぐった門はユニヴェール。憧れの舞台は今、そこにある。

突き抜けるような青空と、降りそそぐ日の光。

それを全身で浴びるように大きくのびをして手すりにもたれかかったのは、ユニヴェール歌劇学校に入学したての1年生、織巻寿々[おりまき すず]だ。

今日のような快晴がよく似合う健康的な顔つきで、立っているだけでパッと目を引く明るさは、所属クラスであるクォーツのなかでも際立[きわだ]っている。ジャックとして活躍を期待されている人材だ。

今日も厳しいクラス稽古を終え、余暇時間になったところ。

「……それにしても、すげえな、これ」

スズは振り返ると、誰に言うわけでもなく1人呟く。

そこには見上げるほど大きなオブジェ。

ユニヴェール歌劇学校は全寮制の男子校で、各クラスごとに寮がある。

独自の世界観を持つ著名なアーティストがデザインしたもので、クラスの特色を遊び心たっぷりに表現していた。

ここ、クォーツ寮もそうだ。

外壁は陽光をたっぷり浴びることができるガラスで覆われ、寮の上部はクォーツという名前そのままに、巨大な水晶が空に向かって突出しているかのようなデザインになっている。

それを間近で見ることができる寮の屋上をスズは気に入っていた。

この場所が好きな理由はそれだけではない。

ユニヴェール歌劇学校が大伊達山[おおだてやま]の中腹にあるのも手伝って、ここからだとユニヴェール歌劇学校を有する玉阪[たまさか]市の景色がよく見えるのだ。

「今日も賑わってんなー」

ユニヴェール歌劇学校から駅へと続く下り坂には、ショップや飲食店だけではなく、かつて宿場町だった名残[なごり]を感じさせる古い建物も残っている。

それが市民だけではなく多くの観光客を招き寄せていた。

彼らの目的には、玉阪市のシンボル的存在である玉阪座はもちろん、ユニヴェール歌劇学校も含まれている。

スズも昔は、駅からあの坂道を上って、ユニヴェールの歌劇を見に来ていた。

スズの視線が、街から学校の敷地内にあるユニヴェール劇場へとうつる。

「…………」

スズは手すりから離れると、左足のつま先を床に押し当て、ほぐすようにぐるりと回した。

楽しげに景色を見ていた顔が引き締まり、口元に力がこもる。

「よっ!」

床に押し当てられていたつま先が、スズの頭上まで高く持ちあがった。

その足がまた床へと降りる勢いを借りるように、スズは力強くステップを踏みはじめる。床を打ち、跳ねる音がリズムを刻む。

スズの脳裏には、ダンスの手本を見せてくれた先輩の姿。

真似るように、追うように、スズは踊る。

しかし、だ。

「あー、ダメだッ!」

スズは頭を押さえのけぞった。

先輩の動きと自分の動きがうまく重ならない。

「はー、やっぱ『あいつ』がいねぇと調子でねぇな……。新人公演まであまり時間がねぇってのによ」

スズは再び手すりにもたれかかる。今度はうなだれるように。

年に5回ある学生公演。一番初めに行われるのが、新1年生を主体にした新人公演だ。入学してから2ヶ月にも満たない準備期間で、ユニヴェール劇場に立つことになる。

かつてスズがいた客席から、憧れの舞台へと。

「……こんなことで負けてらんねー!」

うなだれていた体を強引に引き伸ばしてスズは叫んだ。

「うわっ!?」

すると、誰かがスズの叫びに驚きの声をあげる。

「んっ? この声……」

手すりから身を乗り出すように見下ろすと、同じように声の主を探してこちらを見上げた視線にぶつかった

「やっぱり、世長[よなが]か! お疲れ!」

「スズくん。お疲れさま」

スズと同じくクォーツ所属の1年生。世長創司郎[よなが そうしろう]はスズを見て表情をやわらげた。

世長はなにごとにもじっくり向き合う真面目さと、豊かな想像力で、作品に深く入り込むことができる生徒だが、思慮深さが[あだ]となり身動きできずに苦しんでいることもある。

スズにとっては親しい同期の1人だ。

「あれ、スズくん1人?」

世長が誰かを探すように尋ねてくる。

「あいつならいねーぞ」

「そうなんだ。稽古場にいなかったからスズくんと一緒にいるのかと思ってた」

名前を出さずとも進む会話。思い浮かべている人物はどちらも一緒。

スズたちと同じ、クォーツ所属の1年生。スズとは真逆の繊細な立ち居振る舞いで、ジャンヌとしての期待が高い同期だ。

その同期と世長、スズの3人は、一緒に行動することが多かった。

世長はその同期と幼馴染。自分のことで手一杯なときも、なにかと幼馴染のことを気にかけている。そうは言っても、助けるつもりが逆に助けられ、落ち込んでいることも多いが。

一方、スズにとってその同期は、相棒のような存在だった。

ジャックとジャンヌ、コンビとして、稽古に励むことがよくあるのだ。

今踊っていたダンスも、本来なら隣にその相棒がいる。

そしてなにより、ともに切磋琢磨[せっさたくま]できる友人でもあった。

世長がスズに一緒じゃないのかと尋ねたのも、そういった背景からきている。

「あいつなら、音楽室に行ったぞ」

友人の姿を思い起こしながら世長に伝えると、世長が 「そうなの?」 と詳細を求めるように聞いてくる。

「おう。歌の稽古だって。あいつ、すげーよなぁ。オレ、あんな高音出せねぇよ。やっぱジャンヌやれるヤツは違うわ」

「あ、そ、そうだね……」

幼馴染が褒められて、世長はなぜか気まずそうだ。

「お前はどうよ。稽古」

話題を世長にうつすと、とたんにしおれた花のように頭を垂れる。

「今日も[おおとり]くんに、いろいろ言われちゃったよ……」

「はー!? お前もか!」

「えっ、スズくんも?」

鳳というのはスズたちの同期、眉目秀麗[びもくしゅうれい]なクォーツ1年の主席だ。

協力しながら稽古しているスズたちのことが気にくわないらしく、なにかにつけて[]げ足をとってくる。

「鳳のヤツ、ほんっと目ざといんだよなぁー!」

「言っていることは的確だから、よけいに刺さるよね……」

世長は鳳の言葉を素直に受けとめすぎているようだ。

「気にすんな、気にすんな! あんなの見返しちまえばいいんだよ! がんばろうぜ!」

スズが励ますと、世長が 「そうだよね」 と顔を持ち上げる。

「僕も稽古してくる」

「おう!」

決意したように去っていった世長を見送って、スズも 「よし!」 と気合いを入れ直す。

屋上に来たのは自主稽古合間の気分転換。

充電充分、最後にもう一度景色を眺めて、ダンスルームに戻ろうとした。

「ん? あれ……」

すると、寮に向かって歩いてくる生徒の姿。

目を細めて確認すると、今まで世長と話題に[]げていた友人だった。

しかし、いたのは友人だけではない。

少し離れた場所に同じ制服を着た長身の男。スズたちのことを、なにかと目の[かたき]にしている鳳もいた。

鳳の視線がスズと同じものを見るのと同時に、意思を持って早足で歩きだす。

いやな予感がした。

「あのヤロ……」

スズは掴んでいた手すりを押し叩くように離れると、屋上を出て、階段を駆け下り、クォーツ寮の外へと飛び出した。

友人は鳳に気づいていないらしく、考えごとでもしているのか顔を伏せたまま歩いている。

あと数歩で鳳が追いつく。

「おーい!!」

スズは友人に向かって大きな声で呼びかけた。

まっすぐ響く声が友人の鼓膜を打ち、強引にこちらへと意識を向かせる。

友人と目が合った。

「稽古つき合ってほしいんだけど!」

唐突な申し出に、友人の大きな目が丸くなる。

だが、すぐに異変を感じとったようだ。

「うん、わかった」

友人は背後を振り返ることなく、こちらに向かって走りだす。

鳳が 「あっ」 と顔をしかめた。きっと、スズや世長にそうしたように、この友人にも心ない言葉を投げつけるつもりだったのだろう。

目的を遂行できなかった苛立ちをぶつけるように、鳳がスズを睨みつけてくる。

スズはヘッと笑って、隣に並んだ友人と一緒に再び寮の屋上に戻った。

「そっか、だからあんなに慌てた顔をしていたんだね」

落ち着いたところで経緯を説明すると、素早く状況を飲み込んだ友人に 「ありがとう」 と感謝される。

「同期で競争相手ってのはわかるけどよー……。鳳のアレはもはや、いやがらせじゃねーか。同じ舞台に立つのに、人の足引っ張ってどうすんだよ。それぞれ頑張ればいいだけじゃねーか」

スズがはーっと息を吐くと、友人がスズに寄り添うように 「そうだね」 と頷いた。優しい声に、波立つ気持ちが落ち着いてくる。腹を立てているのもバカらしくなってきた。

「なぁ、稽古つき合ってほしいのはホントなんだよ。振りの表現がしっくりこなくてさ。つき合ってくんねーか」

「うん、いいよ」

クォーツの屋上、2人のシルエットが並んで舞う。

スズ1人だと心許[こころもと]なかったダンスが、2人だとみずみずしく弾けるようだ。

スズの脳裏に、舞台の上、アルジャンヌとともに華々しく踊っていたジャックエースの姿が蘇る。

「……なんかできるようになってきた気がする!」

手応えを感じて喜びを爆発させるスズの横で、額からこぼれた汗をぬぐいながら友人が笑う。

それに正体不明の青臭い鼓動を感じながら、スズも笑い返した。

あの日、同じ夢を見て、今もまだその夢の中にいる。

――ここは?

突如ひらけた視界のなか、暖かな日差しがゆるやかに足下へと落ちる。

状況が飲みこめず四方を見回すと、招くように鳥居がひとつ。奥には、うたた寝するようにたたずむやしろがあった。

その光景に、世長創司郎[よなが そうしろう]は覚えがあった。

[そう]ちゃん!」

風景に記憶が結びついたと同時に、子どもの弾けるような声が聞こえてくる。世長の体が跳ねたのは、体にしみこんだ愛称だったから。

振り返ると、こちらに向かって駆けてくる子どもが3人いる。

先頭を走るのは大きな目をした愛らしい少女。

すぐ後ろには、少女よりいくらか年上で、少女によく似た優麗[ゆうれい]な少年。
そんな2人を追いかけるように、どこにでもいそうな普通の少年が一生懸命走っている。

――僕だ。

世長は思わず息をのむ。同時に、より深く理解した。

これは夢だ。

遠い昔の夢を見ている。

「創ちゃん! 早く演劇ごっこしようよ!」

少女が幼い世長の手をとる。

――……ちゃん。

世長は少女の名を呼んだ。だけどうまく声が出せない。

子どもたちは世長の横を通り過ぎると、鳥居をくぐって、神社の奥へと駆けていった。

――あ、待って……!

追うように世長も鳥居をくぐる。

そのとたん、世長の思いをあざ笑うかのように3人の姿がぼやけた。

3人だけではない。今くぐった鳥居も、神社も、世長自身も消えていく。

「じゃあ、今日は創ちゃんが主役ね!」

存在するのは子どもたちの楽しそうな声だけ。

――待って。

世長は叫んだ。

「お願い、待ってッ!!」

気づけばベッドの上、まるで物語の導入部のように、手を伸ばし起き上がっていた。

「あ……」

カーテンの隙間から差し込む光。ヴー、ヴーと起床を促す携帯のアラーム。

朝だ。

「うわ……」

虚空[こくう]に向けて伸ばした手がなんだか恥ずかしくて、ごまかすように目をこする。

ここはユニヴェール歌劇学校。世長はクォーツ所属の新1年生だ。

「起きなきゃ」

1日が始まる。

もたつきながら支度[したく]をすませ、寮の食堂で朝食を押しこみ、少し遅れて学校に向かう。

「えっと……」

ユニヴェール歌劇学校では、午前中に舞台にまつわる様々なことを専門の講師からしっかりと学ぶ。

授業の組み立ては生徒に任されていて、同期であっても同じ科目を受けるとは限らない。

だからこそ、世長は探してしまう。

(あ……)

背丈は低く、体は華奢[きゃしゃ]なのに、他の生徒にはない芯の強さを見せる生徒。

今日見た夢のなか、一緒に演劇ごっこをしていた幼馴染だ。

今では同じクラス所属の同期でもある。

「おはよ……」

「授業始めるぞ」

声をかけようとしたところで、運悪く講師が現れた。

幼馴染のことは気になるが、ユニヴェールの授業は容赦なく進む。

慌てて着席し、もう一度だけチラリと幼馴染の姿を目に映してから、授業に入った。

新しく覚えることだらけの授業はあっという間に終わり、時間は午後へと移動する。

ここからは、クォーツのクラス稽古だ。

稽古場には1年から3年までが集まり、5月末に控えた新人公演の稽古が行われている。

「はいはーい、それじゃあ、今日までのおさらいするよー!」

自主性が求められるユニヴェール歌劇学校では、舞台も生徒を中心に作られていく。

クォーツを仕切るのは組長である根地黒門[ねじ こくと]。脚本から演出まで手がける天才だ。

「上級生たちは1年生のことをしっかりチェックしてあげて!」

根地がキビキビと指示を出す。

「じゃあ、ジャンヌはこっちに集まりな」

前に出たのは、クォーツのアルジャンヌ、高科更文[たかしな さらふみ]だ。

誰に対しても分け隔てなく接してくれる気さくさを持っているが、圧倒的な華やかさを放つ彼がそばにいるだけで、世長は緊張してしまう。

それはフミに限ったことでもない。

誠実な眼差[まなざ]しでジャックたちの指導を行うクォーツのジャックエース、睦実介[むつみ かい]も、根地に臆することなく歌の意見をぶつけるトレゾール、白田美ツ騎[しろた みつき]も、それらを全てまとめ組み立て先へ先へと進む根地も、ただそこにいるだけで人に影響を与える力がある。

自分なんかが今ここに立っていてもいいのか、不安になるほどに。

世長と同じようにプレッシャーを感じている1年生は少なくないだろう。

「……はーい、それじゃあ、休憩!」

根地の号令を聞くなり、1年生たちは疲れきった表情で座り込んだ。

世長も大きく息をついて、渇いた喉を潤そうとする。

そんななか、違う動きをする同期がいた。

「おい、織巻[おりまき]たちが踊るぞ」

織巻寿々[おりまき すず]だ。

世長は思わずその姿を探した。胸がざわつくのは予感があるからだ。

(あ……)

スズのダンス相手として向かい合っているのは、世長の同期であり幼馴染であるその人。

おそらくスズが、稽古でやったことを確認するため彼女に声をかけたのだろう。

彼女――そう、女性。

男性が男女両役共に務めるこのユニヴェール歌劇学校に、女性である幼馴染がいる。

自分の性を隠して、この男子校に在籍している。

「おっし、いくぞ!」

「うん!」

彼女はスズの言葉に呼応して、彼の手をとり踊りだした。

2人とも舞台経験はなく、そこかしこに荒さがあるというのに、人々の視線を奪うなにかがある。

「いやぁ~、映えますなぁ」

組長である根地が2人を見て興味深げに呟く。隣に並んでいたフミも 「たしかにな」 と同意した。

「織巻、ダンスはまだ見れたもんじゃねーけど、何やっても目立つわ。なぁ、カイ」

「……あいつが織巻をうまく支えているからだ」

カイの目は、スズと共に踊る彼女へと向いている。

「本来ならジャックの役目でしょ、それ」

カイの言葉を受け、白田があきれ顔でぼやいた。

それでも、3年の先輩たちに共感するところはあるようだ。

「まぁ……相性はいいですよね、あの2人」

その言葉が世長の胸の奥深くを刺す。初めは鋭く、次第にじくじくと痛い。

(喉、乾いたな)

自分に言い訳をするように稽古場を出て、義務のように水を飲んだ。だが、どれだけ飲んでも、潤わない。

その後も稽古は続き、いつの間にか日が傾いて、校内に明かりが[とも]る。

ようやく根地から稽古の終了が告げられて、世長はスズと幼馴染、同期3人で稽古場を出た。

「あー、疲れたな!!」

そう言うわりにスズは元気そうで、ひとつ頷くだけでも精一杯の世長は足取りもまぶたも重い。

「しっかし、先輩たちはすげーよなぁ」

スズが稽古を振り返るように言う。

「歌もダンスも芝居も完璧で、俺らに指導までしてくれるんだから。ああいうの見てると……」

スズの眼差[まなざ]しがぐっと強くなった。

「負けらんねぇって思うよな!」

スズの熱さが、世長の体を震えるほどに冷やす。

同じ日、同じ時間、同じ経験をしたはずの彼が、まるで別世界の人のように見えた。

世長は思わず幼馴染を盗み見た。彼女は穏やかな表情でスズの話に耳を傾けている。

何を思っているのかはわからないが、彼女もきっと、向こう側。

世長は今日見た夢を思い出す。

彼女の隣に並び、物語の主役になったのは、遠い思い出。

今では彼女は歩きだし、自分はまだ、醒めない夢の中にいる。

「……創ちゃん、どうしたの?」

いつの間にか表情なく黙りこんでいた世長に、幼馴染が声をかけてくる。

「おいおい、大丈夫か? 今日の稽古キツかったもんな」

スズも振り返って、世長を心配してきた。

「あ、だ、大丈夫! お腹すいちゃってさ」

「あー、わかる」

会話はとりとめのないことへとうつる。そのほうが気が楽だ。

世長はスズの話に耳を傾けながらクセのように彼女を見る。

「………!」

すると、彼女と目が合った。

もしかするとまだ、世長を心配しているのかもしれない。

世長はごまかすように笑顔を作る。

自分はちゃんと、笑えているだろうか。