SPECIALスペシャル

CONCEPT ART & SHORT STORY

シーン1

幾千と幾万と、瞳を閉じても消えない光。

叶うはずのない夢を[]た。

◇◆◇

厚手のカーテンの隙間から、朝の気配がこぼれ落ちている。

それは休日、土曜日。まどろみに抱かれることなく起き上がり、ぐっと大きく背伸びした。

遅れて目覚めた携帯のアラームを止め、短く切りそろえられた髪を整えるように手で[]いて、朝の準備に入る。その手際は良い。

「……」

だが、服を脱ごうとしたところで、動きが止まった。

自分以外、誰もいない部屋を思わずぐるりと見回す。

服を脱ぐ瞬間は、いつも緊張する。

「……着替えないと」

小さな覚悟と共に機敏に、それでいて丁寧に。

その姿は、何気ない朝の風景というよりも、舞台前、神経を研ぎ澄ませながら衣装を身にまとう役者に似ている。

「……よし」

着替え終わると、自分の姿を確認するため鏡の前に立った。今日は制服ではなく稽古着だ。

「……」

右手を持ち上げ、喉元にあてる。そのまま、スッと下におろした。

凹凸のない、少年の体。

「……うん」

準備は整った。

小さく頷いて窓辺に進む。

厚手のカーテンを開くと、受けとめきれないほどの光量。

顔をそらしそうになるのを[こら]えて、先を見つめる。

光に馴染んだ瞳が映し出したのは、青空を従えたユニヴェール歌劇学校。

少年だけで歌劇の舞台を作る全寮制の男子校だ。

「……」

それをじっと――立花希佐[たちばな きさ]は見る。

ユニヴェール歌劇学校、78期生、クォーツ所属の新1年生。

ここにいるはずのない『女』だ。

シーン2

「あっ、立花ー!」

朝食をとるため、クォーツ寮の食堂に行くと、突き抜けるような明るい声が飛んできた。

「スズくん、おはよう」

希佐の同期、1年生の織巻寿々[おりまき すず]だ。

トレイいっぱいの食事を前に座る彼が、希佐を招くように右手を上げている。彼も既に稽古着だ。

希佐は自分の朝食を受けとると、スズの正面に腰掛けた。

「休みなのに早いね」

「天気いいから大伊達山[おおだてやま]まで走ってきたわ。これから自主練ー」

ユニヴェール歌劇学校では、歌劇に関することを専門の講師から学ぶ午前授業と、公演に向けてクラス生全員で稽古するクラス稽古のふたつが、月曜日から金曜日まで、隙間なく詰まっている。

そのため、休日である土日、特に土曜日を、週の振り返りや翌週の準備に当てる生徒が多い。

「立花はどうすんの?」

「私も自主練」

「だと思った! なぁ、一緒にやんねーか? 2人なら出来ることも増えるしさ!」

弾んだ表情で誘いかけてくるスズに、希佐は 「うん」 と頷く。スズが嬉しそうに二カッと笑う。

「新人公演も近づいてるし、頑張らねーとな!」

希佐たち1年生にとって初舞台となる新人公演。名前そのままに、1年生メインの公演だ。ここでの結果が今後のユニヴェール人生を左右するとも言われている。

(結果……)

――常に良い成績を狙っていけってことだ。無能な奴を眺めて楽しむ趣味はねーからな。

希佐の脳裏に蘇る言葉がある。冷たく言い放たれたわけではない。励め、戦え、そして掴めとあの人は言ったのだ。

「……そうだね、頑張らないと」

発した言葉はスズへの返しであり、希佐自身への戒めだった。

シーン3

朝食を食べ終えた2人は、穏やかな陽気の中、舞台のことをあれこれと話しながらクォーツの稽古場へと向かう。しかし、扉を開き、中から飛び出してきた空気を浴びた途端、2人は息を飲んだ。

「……立花、フミさんだ」

スズが小さく、鋭く言う。

希佐の眼にも、既にその人の姿は映っていた。

希佐たちの2期上の先輩、クォーツ3年の高科更文[たかしな さらふみ]が、窓から入り込む光の下、艶麗[えんれい]に踊っている。

そこには、この人こそが、クラスの華であるアルジャンヌなのだと思わせる強さがあった。誰にも負けない、誰も近づけない、孤独な強さが。

「やっぱすげぇな、フミさんは。なぁ、立花――」

スズは言葉を止めた。

希佐の大きく開かれた瞳の中、フミが踊っている。

きらきら、きらきらと。

「……っと。んなとこ突っ立ってねーで中に入ったら?」

踊り終わったフミが、入り口で立ち止まっていた2人を見てゆったりと微笑む。

「そうッスよね、はよざいます!」

「おはようございます」

「はい、おはよーさん。今から稽古か?」

フミに問われて、希佐とスズの声が 「はい」 と重なる。フミはふーんと鼻を鳴らし、今度は悪戯っぽく笑った。

「だったら、公演ダンスがちゃんと入ってるか、チェックしようかね」

「うえっ!?」

「どれくらいモノに出来てるか、しっかり見てやるよ」

ダンスの腕はユニヴェール随一と名高く、クォーツの公演振り付けも担当しているフミにチェックされる緊張感は、並大抵のものではない。

しかし2人に芽生えた感情はそれだけではなかった。

「マジすか! フミさんにダンス見てもらえるなんて、ついてる!!」

「よろしくお願いします!」

卓越した技量を持つフミが稽古をつけてくれる。これほど贅沢な学びがあるだろうか。

高揚する2人を見て、フミは何かに想いを馳せるように目を細めた。

「おっしゃ、じゃあ踊ります!」

「その前にストレッチな」

「うおあっ! はい!」

それから2人、フミにダンス指導をつけてもらった。

「織巻、綺麗に踊ろうとしすぎて動きが小さくなってる! それじゃあ持ち味が出ねーぞ、もっとデカくだ!」

「うッス!」

スズの動きが一気に大きくなる。それだけでダンスに賑わいが増し、ひときわ目立つようになった。

「希佐、鏡見ろ! 踊れてねーところがあるぞ!」

「えっ」

言われるままに鏡を見る。

しかし、どの部分を指摘されているのかわからない。

「んんっ、どこだどこだ?」

スズも鏡越しに希佐を見て、疑問符を浮かべる。

フミが言った。

「顔だよ、顔」

「顔? あっ!」

動きにばかり気をとられ、いつの間にか無表情になっていた。

希佐はダンスに合わせ、パッと笑顔を浮かべる。

「うお、それっぽい!」

より役柄に近づけているとスズは褒めてくれているようだ。希佐自身もそう思ったが、ハードなダンス中にふさわしい表情を当てていくのは案外難しい。それに、表情を維持するのも大変だった。

希佐は鏡越しに踊るスズの顔を見る。

彼の表情は、ダンスに合わせ、クルクルと陽気に変わっていった。

それが得意というよりも、役の感情そのままに、自然と出来てしまうようだ。それだけではなく、体力的な余裕も感じる。

希佐は改めて鏡に映る自分を視る。

スズを見た後だからこそ、己の不出来が克明に映し出されていた。

だが、今まで見えなかった課題は自分を成長させてくれるはずだ。

(顔周りの筋肉を鍛えたらいいかもしれない……。あと、細部まで意識するためにも体力を……)

希佐は今の自分に出来ることを模索する。

「……んー」

そんな希佐を見て、フミが目を細めた。

「やっぱ視るのが上手いな、あいつは」

踊り始めて30分。

今、抱えている問題をあぶり出し、これからの課題を明確化する、要点ばかりが詰まった時間が過ぎた。

「よし、これくらいにしとくか」

「ふはー! ありがとうございました、フミさん!」

「ありがとうございました!」

「ハイハイ、お疲れサン」

フミはひょうひょうと去って行く。

「……やっぱカッケーなぁ、フミさん」

渇いた喉を潤すようにペットボトルの水を一気に飲み干してから、スズがしみじみそう言った。

「一番デキる人が一番稽古してるってのが、またすごいんだよなー」

自分たちよりも早く、1人、踊っていたフミ。実力も才能もありながら、[おご]ることなく努力を積み重ねる姿は、希佐たちクォーツ生の模範だ。

「おっし、来週のクラス稽古で、フミさんにデキるとこ見せてやろうぜ!」

スズがぐっと拳を握る。

希佐も 「うん!」 と応え、2人はフミの姿を思い浮かべながら、再び踊りだした。

シーン4

「……お疲れさまですっ!」

焦りが滲んだ声が稽古場に響いたのは、フミが稽古場を去って程なくした頃だった。

希佐はダンスを止めて、扉の方へ顔を向ける。

[そう]ちゃん、お疲れさま」

世長創司郎[よなが そうしろう]。希佐たちと同じクォーツ1年の同期である彼は、希佐の幼なじみでもある。

中学に上がる前に彼が引っ越したため、再会はここ、ユニヴェールだった。

昔に比べたら高くなった視線も、低く落ち着いた声も、昔から変わらない優しさのおかげで既になじんでいる。

「お疲れ、世長! そんなに慌ててどうしたよ」

希佐の隣に並ぶスズが声をかけると、世長の眉尻が下がった。

「朝一で自主練するつもりだったんだけど、寝坊しちゃって……」

「また遅くまで本読んでたのか?」

世長の部屋には本棚いっぱいに書籍が並んでいる。読み込むうちに寝る時間を誤り、朝、眠そうにしていることが何度もあった。

しかし今日の理由は違うようだ。

「来週提出の課題が終わってなくてさ。ほら、箍子[たがね]先生の……」

深いしわのひとつひとつに賢知が滲む箍子数弥[たがね かずや]は、舞台の歴史や脚本の読み方、他にも、舞台にまつわる様々な事柄を教える座学の講師だ。

「ああ、脚本読んで気になったところ調べろってやつか」

「うん、玉阪座[たまさかざ]の舞台脚本」

箍子はユニヴェールの母体、男性歌劇の最高峰『玉阪座』の演出も手がけている。その流れで、玉阪座にまつわるものを教材代わりに使うことが時折あった。

「歴史物で、明治の話なんだよね、あれ」

世長の言葉に、スズが 「江戸だと思ってた」 と慌てる。

「世長スゲー真面目に調べてそう。オレ、こういうのニガテだからさっさと出しちまったよ」

「えっ、そうなんだ! 何について調べたの?」

「主人公の奉公先の仕事」

希佐が 「呉服屋だったよね?」 と確認するように聞く。

「そうそう、呉服屋。時代劇でよく見かけるけど、実際どんな仕事してんのかイマイチよくわかんなくてさ。そんな状態で芝居やっても、上手く動けないだろ? だから……」

スズが世長の背後に立つ。

「はい、新しいお着物ですね!」

「えっ」

驚いて振り返る世長のことは気にもせずに、スズが世長の後ろ首に手をそえる。

「では、寸法を測りましょう、身丈はここから……」

スズはその場にしゃがんで、今度は世長のかかとを押さえた。

「……ここまで」

その動きは、それこそ時代劇で、反物を手に寸法を測る呉服屋のようだ。

「スズくん、すごい。動きまで入ってるんだ」

驚く世長に、スズが 「見たからな!」 と胸を張って応える。

「見た? 何を?」

「街の……中小路[なかこうじ]にある呉服屋で、直接見てきた」

希佐と世長が 「えっ!」 と声をあげる。

「いやだって、本見ても、ネットで検索しても、いまいちピンとこなかったからさ~!」

実際に働いているところを見せてもらったそうだ。

玉阪という街全体がユニヴェールに協力的なのはもちろん、社交的なスズならではの方法だろう。

世長が改めて 「すごいなぁ……」 とため息をつくように言う。

「希佐ちゃんはもう終わった?」

「進めてはいるけど、まだ終わってないよ。脚本に出てくる知らない言葉を調べていたんだけど、ひとつだけ手持ちの資料じゃわからない言葉があって。今日、図書室で調べるつもり」

「あっ、そうなんだ、僕もなんだよ。朝稽古をすませたら、図書室に行こうと思ってて……」

それなのに寝坊をしてしまい、予定がくるったのだろう。世長が肩を落とす。

「今から稽古して、図書室行けばいいだけだって。そんな気にすんなよ」

自己嫌悪に陥る世長をスズが励ます。

「そ、そうだね! こうやって落ち込んでいる時間がもったいないし、2人の稽古も中断させちゃって……。……」

「おいおい、またきた、またそれ! ほら、稽古しよーぜ!」

スズが引っ張るようにして、今度は3人での稽古が始まった。

静かに稽古場を照らしていた太陽は東の空からてっぺんへと移動していく。

「腹減った!」

そして正午を区切りに3人で昼食を食べたあと、歌の稽古をするというスズと別れ、希佐は世長と2人、図書室に来た。

ユニヴェール歌劇学校の図書室は、広大だ。背丈の高い本棚が隊列を組むようにずらりと並び、一般書籍から舞台に関わるものまで、一生をかけても読み尽くせないほどの本が所蔵されている。

「……すごいね創ちゃん。レポート用紙、何枚書いたの?」

学習スペースに横並びで腰掛け、世長がレポート用紙を取り出したところで希佐がその枚数に驚いた。

自主性が求められるユニヴェールらしく、各自それぞれ勉学が身につく選択をと、枚数に規定はなかったのだが、世長のそれは明らかに多い。

「あ、違うんだよ。何をどこまで調べたらいいのかわからなくて、気になったことをまとまりなく書き出しているうちにこうなっちゃったんだ……」

想像力が豊かな世長にとってユニヴェールの自主性は、どこまでも広く続く高原の中、数百数千にも及ぶ羊の群れの面倒をたった1人で見るようなものかもしれない。

「そのせいで寝るタイミングも逃しちゃって……。僕、ホントこういうこと多いや。スズくんみたいに最初から焦点を絞ってやれば良かった」

世長が俯くようにレポート用紙を見つめる。

「希佐ちゃんは朝からスズくんと稽古してたの?」

「うん」

「そっか。2人のダンス、昨日よりずっと、それこそ見違えるように良くなってたから驚いたよ」

「あっ、それは、フミさんに稽古をつけてもらえたからじゃないかな」

「フミさん?」

希佐はフミとの朝稽古を思い出しながら言う。

「朝一で稽古場に行ったらフミさんがいて、ダンスのチェックをしてくれたんだ」

それがしっかり形になっているようだ。

「そうだったんだ……。やっぱり早起きすれば良かったな。フミさんには自分からうまく話しかけられないから」

世長が残念そうに息をつく。

「あ、ごめん、課題があるのに脱線ばかりしちゃって」

話しを切り替えるように、世長が課題の脚本を手に取る。

「そういえば希佐ちゃんのわからない言葉って?」

希佐は脚本を開くと 「ここ」 と指さした。

そこには『誘宵』と書かれている。

「初めて見る言葉で、意味も読み方もわからなかったんだ。創ちゃん、わかる?」

「これ、僕もわからなかったんだ。セリフは……」

男が『誘宵に外をほっつき歩いてどうした』と尋ねるようだ。

それに対して女が『なんでもないわ』と答える。

「うーん、セリフから上手く読みとれないな……。ネットで検索しても、出てこなかったんだよ、この言葉。『宵』が入っているから日暮れ後の夜だとは思うんだけど……でも誘うって。誘う宵……」

世長はヒントを探すようにレポート用紙をめくる。

「……この舞台、初演は明治で、玉阪座の十二代目の玉阪比女彦[たまさか ひめひこ]が演じた舞台らしいけど……」

――玉阪比女彦。

玉阪座の起源は、江戸の中期、全国各地を回っていた旅一座の座長、比女彦にある。

才気溢れる絶世の美少年だった比女彦は、当時、この近辺を治めていた領主にいたく気に入られ、『玉阪』という名と、土地を賜り、舞台小屋――玉阪座を開いた。それが始まりだ。

名は代々受け継がれ、今ではユニヴェール歌劇学校の校長である中座秋吏[ちゅうざ しゅうり]が十八代目・玉阪比女彦を襲名している。

「人気の舞台だったのかな?」

「それが、早世した十二代目と共に上演されなくなったらしいよ。近年になって復活させたとか。箍子先生も関わっていたみたいだね」

そういう経緯もあって、教材として使っているのだろう。

「この言葉、今は[すた]れた当時の言葉だったりするのかなぁ」

首をかしげる世長の言葉を聞きながら、希佐は『誘宵』という言葉を見つめる。

そこに、影が差した。

「これは『いざよい』ですなぁ」

「……ッ!?!?」

耳元すぐ側で突如響いた声に希佐は身をすくませる。

見れば希佐と世長の背後から、ぐっと身を乗り出すようにして、クォーツの組長、根地黒門[ねじ こくと]が脚本をのぞき込んでいた。

「ね、根地先輩……! お疲れさまです」

希佐が慌てて挨拶する。

世長も 「お、お疲れさまです」 と続いたが、声はうわずり手は心臓を押さえていた。

「はい、お疲れさまん。休日なのに図書室でお勉強とは熱心だねぇ」

根地が眼鏡[メガネ]を持ち上げにんまりと笑う。

「箍子先生の課題なんです。脚本を調べてくるようにと」

「どうりで渋い。古い玉阪歌劇だね」

根地が希佐の脚本を勝手に取り上げパラパラとめくる。眼鏡の奥の瞳が[せわ]しなく、楽しそうに文字を追う。

「箍子先生は相変わらず趣味がよろしい。『誘宵』なんて言葉が出てくる脚本を課題に出すなんて」

「調べても出てこなかったんです。昔の言葉なんですか?」

「昔の言葉でもあるし、玉阪独自のものでもある」

「『玉阪座』独自の、ですか?」

希佐の言葉に、根地が 「いーや」 と首を横に振った。

「ここで言う『玉阪』とは、『玉阪市』のことよ」

根地は『誘宵』と書かれたページを開き直して、机の上に置いた。

「この言葉は、玉阪市独自の古い言い回しなのさ。でも、聞いたことない? 『いざよい』」

それに、世長が 「あっ」 と声をあげる。

「もしかして……『十六夜[いざよい]』、ですか? 月の名前……新月から数えて、16日目の月」

世長が希佐に教えるように、『十六夜』とレポート用紙に書く。

「さすが、世長くん、月通[つきつう]だね!」

正解だったらしく、根地が世長に向かって拍手した。静かな図書館にやたらと響き渡る盛大な拍手だ。希佐と世長が 「ね、根地先輩!」 と慌てる。そんな2人に根地は逆に 「落ち着きたまえ、お静かに!」 と言って、これまた響く咳払いをひとつした。

「月の満ち欠けには、日本固有の名前が様々にある。十六夜もそのひとつ。先ほど世長くんが言ったとおり、新月から数えて、16日目の月のことだ。月ってヤツは大体、15日目が満月だから、十六夜はその翌日、やや欠けた月を指すことが多いね」

まるで講師のように、根地が朗々と語る。舞台で講師役の人間が専門分野について語っているシーンのようにも見えた。

「この十六夜を、玉阪の人たちは[いざな][よい]と書いて『誘宵』と呼ぶんだ。どうしてかわかるかい」

根地が内ポケットからペンを取り出し、世長をビシリと指す。

「えっ」

「そう! 玉阪では昔から十六夜の晩に、ふらりと姿を消す人が多かったんだ! ……なにかに誘われるようにね」

「こ、答えていませんが……!?」

「そうなんだよ、思い悩む人ほど誘われやすかった……」

世長の戸惑いなど歯牙[しが]にもかけず、話は進む。

「だからほらごらん、この『誘宵』が入ったセリフ」

根地が『誘宵』と記された箇所をペンで指す。

「レッツ立花くん!」

「えっ! ……男が『誘宵に外をほっつき歩いてどうした』、です」

気持ちを切り替え、希佐がセリフを読みあげると、世長が 「あっ」 と声をあげた。

「じゃあ、これってもしかして、女性が思い悩んでどこかに消えてしまうんじゃないかと男が心配するセリフなんですか?」

「はい立花くん、ここで返し!」

「女性が『なんでもないわ』です」

「どう思う、世長くん?」

根地が再び世長に問う。

「女性が、悩みなんてない、って返しているんでしょうか。でも……真意をつかれて誤魔化そうとしているだけなのかも……?」

しかし世長は 「ちょっと待って下さい」 と首をひねった。

「男性が軽口を叩いているだけの可能性もあるのかな。冗談っぽく『なんだい、消えちまうつもりなのかい?』って。女性はそれをあしらうように……あー、でもな」

世長の頭の中で様々な可能性が溢れ出しているようだ。

「根地先輩、正解はなんなんですか?」

白旗を上げるように世長が回答を求める。

「世長くん、それはね……」

根地の表情が、スッと真面目になった。真剣な眼差しに、希佐と世長の背筋も伸びる。

「……知らぬ!!」

しかし、答えは予想外。

戸惑う2人に根地がケラケラと笑う。

「正解のない世界で、答えを探し求めるのが面白いんじゃないか~」

その言葉は、不思議と澄んでいた。だから希佐も世長も、何も言えなくなる。

「さてと! シメのキリがヤバシ僕はそろそろ作業部屋に戻ろうかね。このままじゃ僕も誘宵に消えてしまうかも……なんてね、ふはは!」

根地はペンを内ポケットにしまい、ひらりと手を振ると、颯爽と去って行った。

図書室に静寂が戻る。不思議とそれが寂しい。

「脚本……改めて読み直そうかな」

世長が脚本を手にとりぽつりと呟く。

「そうすればこのセリフの真意にもっと近づけるかもしれない……」

もっとわからなくなる可能性もありそうだけどね、と世長が苦笑する。

「それにしても根地先輩ってすごいな。奔放で捉えどころのない人だけど、舞台への情熱は真っ直ぐというか……。……真っ直ぐ……真っ直ぐ、かな?」

表現がしっくりこなかったようだ。世長は少し考え込んでから、良い答えが見つかったのか、顔を上げる。

「求道者、みたいだよね」

「求道者?」

「舞台のこと、常に探し求めてるから。どうしてそこまで、どうしてそんなことまで、ってこと、多いでしょ?」

世長がもういない根地を振り返る。

「根地先輩の求める道の先に、一体何があるんだろうね」

シーン5

根地のおかげで自分の課題が終わった希佐は、まだ時間がかかるという世長と別れ、校舎を出た。

「あと、やらなきゃいけない事は……」

中庭の石畳を足早に進みながら次の予定を立てる。すると、急に風が吹き抜け、落ち葉が舞い上がった。風は木々を揺らし空へと消えていく。残ったのは迷惑そうな木々のざわめき。

「……あれ?」

その隙間から、違う音が響いてきた。心地良い歌声だ。

「……白田[しろた]先輩?」

希佐は探すように校舎を見上げる。音楽室の窓が開いていた。

「……」

希佐はじっと耳を澄ませる。

「……やっぱりそうだ」

希佐の先輩であり、歌唱に秀でたジャンヌだけが名乗れるトレゾール、2年の白田美ツ騎[しろた みつき]が音楽室で稽古をしている。その歌声が、希佐の足に根を張らせる。

「……少しだけ」

希佐はそのまま耳を傾けた。

確認するように何度も繰り返し響く歌声は、白田の歌に対する姿勢がそのまま現れているようだ。

だが彼は、がむしゃらに歌うようなことはしない。長く遠く歌うため、自身をしっかりコントロールしている。

だからこうやって、白田の稽古に出会えるのは貴重なのだ。

もう少し、もう少しと思ううちに、時間はどんどん過ぎていく。

結局、白田の歌声が止まるまで、聞き込んでしまった。

「あっ、私も稽古しないと……。次は何をするんだっけ……確か芝居の……」

頭の中が、白田の歌声で綺麗さっぱり洗い流されたようだ。

希佐は思い出すように歩き始める。足取りは速くない。でも、軽い。

「……立花?」

ところが、この場を離れるよりも先に、頭上から声が響いた。

しまったと思いながら希佐は見上げる。

音楽室の窓から白田がこちらを見下ろしている。

窓を閉めようとしたところ、希佐に気づいたのかもしれない。

「あっ、お、お疲れさまです」

ぺこりと頭を下げるが、白田の視線は冷たい。

「……また盗み聞きか」

「すみません!」

白田の歌声につられ、許可なく聞き入ってしまったのはこれが初めてではない。

白田はあきれ顔で息をつく。

「……フミさんにダンスの稽古つけてもらったんだってな」

「えっ」

どうしてそれをと驚く希佐に、白田が 「うるさいのが言ってた」 と言う。

白田がそうやって言うのは大抵スズのことだ。そういえば、歌の稽古をすると言っていた。

「立花がああだ、世長がこうだと聞いてもないのにべらべらと……何しに音楽室まで来てるんだか」

「あ、あはは……」

無邪気に話すスズの姿が容易に想像出来る。

「休日まで同期3人揃って稽古だなんて、よくやるよ」

そこで、希佐を見下ろしていた白田の視線がスッと上がった。希佐に投げかけているというよりも、独り言のようだった。

白田が同期と並んでいる姿を、ほとんど見たことがない。

彼が自ら会話する相手は、クォーツのアルジャンヌとジャックエースくらいだ。歌周りのことで、時折、根地とも話しているが、しつこく絡み返され露骨に嫌そうな顔をしている。

同期と仲が悪いわけではないと思う。しかし、埋まらない距離は確実にある。

クォーツ77期生の中で舞台の中心にいるのは、白田だけ。

77期生に関しては他クラスも似たような状況にあると聞いたことがある。

舞台の中心にいるたった1人と、それ以外。

一体、何が彼らを分けたのか。

窓から真っ直ぐ平行に景色を見つめる白田の目に、一体何が映っているのだろうか。

「同期ってのは、近くても遠くても、苦労するぞ」

「え……」

ぽつりと言葉が落ちてきた。

「それって……」

言葉の意味が知りたくて、じっと待つ。

しかし、彼はそんな希佐を置いていくように、窓に手をかけた。

会話はこれでおしまい。

わかっているのに諦めきれず、希佐は白田を見つめる。

すると、窓が完全に閉まる直前、隙間から言葉が[こぼ]れた。

「ユニヴェールはダンスだけじゃないからな」

「……!」

窓が閉じられる。

求めた答えではなかった。しかし、先輩から後輩へと向けられた言葉だ。

ダンスだけではなく歌の稽古もするようにと白田は言っているのだろう。

「……」

予定は変更だ。

希佐の足は真っ直ぐ音楽室へと向かう。

「……失礼します」

中に人の姿はなく、当然、白田もいない。

「あれ?」

だが、ピアノの側まで歩みよったところで、気がついた。

窓が開いている。

先ほど白田が閉めたはずの窓が、なぜか少しだけ開いている。

まるで外に歌声を響かせろと言うように。

「……」

その先に白田がいるのかはわからない。

だからといって窓の下をのぞき込むような真似はしない。

希佐は歌い始めた。

練習であっても常に誰かに聞かせることを意識して。

人から距離は置いていても、人のことはしっかり見ている白田の言葉なのだから。

それから、歌の稽古に区切りがついた頃には、窓から差し込む光に茜が混じり始めていた。

「……ふぅ」

希佐は退室しようと扉に手を伸ばす。

「あ」

しかし、それよりも早く扉が開いた。

「……! お前……」

ドアを開けた相手は希佐を見るなり、不快を眉根に刻む。

[おおとり]くん……」

スズや世長と同じ、希佐の同期、鳳 京士[おおとり きょうじ]

入試ではクォーツ1の成績だった眉目秀麗な彼は、入学後も全てにおいて頭ひとつ抜けた存在だ。

だからこそ、その鳳を差し置いて何かと期待されている希佐たちへのあたりは強い。

現に今も彼は、「なんでお前なんかが」 と責めるような眼差しで希佐を見ている。

「お疲れさま、鳳くん」

希佐はそんな視線を真正面から受けとめ、挨拶をした。

意外だったのか、鳳は目を丸くする。しかし、すぐ不機嫌そうな顔をして、希佐の横を乱暴に通り過ぎた。希佐もそのまま、廊下に出る。

「……鳳くん、いつも稽古してる」

1人になったところで、希佐はそっと呟いた。

ここでは誰もが選ばれようと必死なのだ。無論、希佐も。

それが誰かを蹴落とし、誰かに蹴落とされることになる。

――同期は、近くても遠くても、苦労する。

希佐の脳裏に白田の言葉が蘇る。

希佐は廊下の窓から真っ直ぐ景色を眺めた。見つめる先にあるのは、緑の木々を優しく抱く大伊達山。

「……少し歩こうかな」

希佐は学校の裏口から外に出ると、大伊達山へと続く踏み固められた土の道を上って行った。

シーン6

「……」

木々は深くなり、上れば上るほど、空気がひやりと透明になる。

希佐はゆっくり息を吐くと、今度は胸いっぱいに山の空気を吸い込んだ。それを何度か繰り返す。

足元には、木々の隙間から零れるまだら模様の日差し。

その限られたスペースの中、草花が光を奪い合うように生え伸びている。

この中で一番になるのはどれだけ難しいのだろう。

一番になれば勝ち誇ったものが生い茂り、背丈の低い草花を隠すのだろうか。

そうして力をなくした草花は、[しお]れ枯れ消えてしまうのだろうか。

「……私も」

『約束』が果たせなければ、ここから消える。

新たに吸い込んだ空気はチクリと冷たい。

その刺すような痛みが[]みのように広がっていく。

希佐は振り払うように首を左右に振った。そして、思い描くのだ。

自分をこの場所に向かわせた、あの日の光景を。

ユニヴェールの舞台に立つ、兄の姿を――

「……立花?」

名を呼ばれ、一気に現実へと引き戻された。

「あ、カイさん! お疲れさまです」

道の奥から姿を現したのは、クォーツ3年、睦実 介[むつみ かい]

クラスのため、舞台のため、何をすればいいのかを常に考え、時には個を消してでも役割を全うする、クォーツのジャックエースだ。

時間があるときは大伊達山で過ごしていることが多いらしく、何かを探すようにじっと空を見上げる姿を何度か見たことがある。

「そろそろ日が暮れる。あまり長居はしないほうがいいぞ」

「あ……、ホントですね」

まだ明るいように見えても、道を下ってユニヴェールまで戻る時間を考えればもう遅い。

「戻ります。……カイさんは?」

「俺も戻る最中だ」

帰る場所は同じユニヴェール。

希佐はカイの少し後ろについて、道を下っていく。

「今日も自主練か?」

短く問われ、希佐は 「はい」 と返した。

「スズくんと一緒に、フミさんからダンスの稽古をつけてもらいました」

「フミから? そうか……」

そこでいったん間を開けて。

「……フミを前にすると遠慮したり、臆したりする生徒が多いんだがな。お前や織巻にはそれがない。フミもそれを面白がっているようだ」

「フミさんが?」

カイが 「ああ」 と静かに頷く。

「直接聞いたわけではないがな。見ていたらなんとなくわかる」

カイはジャックエースとして、アルジャンヌであるフミとコンビを組んでいる。無駄に言葉を重ねなくても通じ合うものがあるのだろう。

「世長は一緒じゃなかったのか?」

「フミさんと、創ちゃんは入れ違いで。でも、その後同期3人で一緒に稽古をしました。あと創ちゃんとは2人で課題も。お互いわからないことがあって図書室に」

今日を振り返るように、希佐は話す。

「そこで根地先輩にお会いしたんです。おかげで、わからなかったことを教えてもらえました」

「そうか。当の本人は課題そっちのけで脚本執筆をしているんだがな」

「そ、そうなんですか?」

「あいつ1人だけ課題を提出していないとかで。先生から催促されていた。まぁ、コクトのことだ。最後は丸くおさめるんだろう」

その姿が容易く想像つく。

「じゃあ、そのあとここ[大伊達山]に?」

「あ、いえ、歌の稽古を。白田先輩にもお会いしたんです。それで」

それを聞いて、カイがこちらを振り返った。

「ずいぶん忙しかったんだな……。帰るよう促したが、もう少しゆっくりしたかったんじゃないのか?」

カイが申し訳なさそうにしている。希佐は慌てて 「いいえ」 と否定した。

「山を下る時間がすっかり抜け落ちていたので、声をかけてもらえて良かったです。カイさんも稽古のあと、ここに来られたんですか?」

「今日は少し早めに切り上げて、比女彦神社まで」

カイの視線が今下ってきた道の奥へと向く。

比女彦神社。それは、初代、玉阪比女彦が祀られた神社だ。街の人には『比女彦さん』と呼ばれ、親しまれている。

「お参りですか?」

「ああ。舞台の成功祈願をしにな」

「成功祈願? あっ、もしかして……」

希佐はすぐ答えを見つけた。

「新人公演、ですか?」

「ああ」

道の奥を振り返っていたカイの視線が、希佐を通って、正面へと戻る。

「玉阪座の役者たちは、舞台前、比女彦神社に参拝することが多いらしい」

話しながら、カイの歩調が、少しだけ早くなった。日暮れが近いのだろう。

「俺もそれに[なら]って、舞台前に足を運ぶようになった。みんな怪我なく、無事に終わるようにと」

これから本番までは、駆けるように早いのだと思う。

カイが比女彦神社に行くことが出来なくなるくらいに。

「……クラスの新しい形が出来つつある」

ただ、[せわ]しない日々にあっても、カイの言葉はしっかりと落ち着いていた。

「クラスの新しい形、ですか?」

「ああ。お前たち78期生を迎えたこの形で、これから1年、どう舞台に立っていくのか、どう戦っていくのか」

ユニヴェールでは4つのクラスに分かれて歌劇の舞台を競い合っている。目指すのは、最も優秀なクラスに与えられるクラス優勝。

自分のことで精一杯な1年とは違い、上級生たちはもっと先を見すえ行動しているのだ。

新人公演期間を使って新1年生をしっかり育成するのも、これからのため。

「それは、クォーツに限ったことではないがな」

カイの足が止まる。

「あ……」

木々を抜け、カイと希佐の目に、夕焼けをうけて緋色に染まるユニヴェール歌劇学校の姿が広がった。

シーン7

「オニキスの新人公演はこの形で挑む!」

舞踏を得意とするジャック中心のクラス、オニキス。

その稽古場で、卓越した統率力とカリスマ性を持つ組長兼ジャックエース、オニキス3年の海堂岳信[かいどう だけしん]が高らかに宣言する。

加斎[かさい]、真ん中はお前だ。頼むぞ!!」

「はい!」

海堂の言葉を真っ直ぐ受けとめ、力強く返事をしたのは、オニキス1年、加斎 中[かさい あたる]

入試では78期生の中でも次席。何事にも勘所が良く即座に吸収していく彼は、新人公演でジャックとして真ん中に選ばれた。

ジャック中心のクラスであるオニキスでこのポジションに選ばれるということは、同期ジャック生の中でもトップに立ったに等しい。

当然、重圧もあるが、加斎の背中はそんな重みをものともせず、しなやかに伸びている。

「まさかお前が選ばれるとはな」

「アタルのガッツ、すごかったですもんネ」

そう言って歩みよってくるのは、屈強な体躯で力強いダンスを得意とする長山登一[ながやま といち]と、エキゾチックな風貌で色香の漂うダンスを踊るダンテ軍平[ぐんぺい]

2人とも加斎の同期で、共にジャック。彼らに比べると、加斎はずっと小柄でジャンヌのようだ。それでも真ん中を掴みとったのは、加斎にそれだけの力があるということ。

だが、問題もあった。

菅知[すがち]! 加斎の相手をしてやれ」

「わかりました」

海堂に言われスッと前に出たのは、オニキス2年の菅知聖治[すがち きよはる]

一見、素朴で質素だが、舞台に立てば幼少期より学び続けたバレエで華やぐ、オニキスのアルジャンヌだ。

加斎の稽古相手としてあてられたのは、よりレベルの高い相手と組ませることで加斎の成長を図るため――だけとは言いがたい。

加斎の実力に見合うジャンヌがオニキスの1年にいないからだ。

菅知は海堂のパートナー。強い信頼関係で結ばれた2人は、組むことによりその力を何倍にも何十倍にも大きくさせる。

現ユニヴェール1のパートナーと言われるのもうなずけるほどに、憧れるほどに。

菅知と踊りながら加斎は思う。

自分も互いを認め合い、その才能に惚れ込めるようなパートナーが欲しいと。

シーン8

「おい! 稽古はまだ終わってないぞ!!」

歌唱を得意とするジャンヌ中心のクラス、ロードナイトの稽古場に、歌ではなく慌てた様子の叫び声が轟いた。

「え~、もう、いいじゃないですか~!」

稽古場の扉を開きながら言うのは、ロードナイト1年、忍成 稀[おしなり まれ]

ふわりとリボンが揺れる洋服も、くるくると巻かれた髪の毛も、しっかりメイクを重ねた面立[おもだ]ちも、年相応の女子にしか見えない彼が、ロードナイトのジャンヌである。

「大体、今日は土曜日ですよ! 休みに稽古させるなんて、マジ、ブラック!」

稀が稽古を強要するそっちの方がおかしいと主張する。

しかし相手は即座に反論した。

「日頃から稽古サボってるせいだろ! このままじゃ新人公演の舞台、間に合わなくなるぞ!」

ロードナイト2年、ジャックエースの御法川基絃[みのりかわ きいと]。平時であれば比較的温厚で知的な彼だが、今年度に入ってから乱されっぱなしである。

「もー、御法川先輩の心配性! 大丈夫、私たち、いざとなれば出来る子だから! ユキ、エーコ、行こ!」

そう言って、稀は同期に呼びかけ稽古場を抜け出した。

「はいは~い♪ ミノリン先輩、おつで~す」

ユキと呼ばれたジャンヌの宇城由樹[うしろ ゆき]が、ピンクの髪と黒いスカートを翻して、楽しげに続く。

「ん」

同じくジャンヌで口元をマスクで覆ったエーコこと鳥牧英太[とりまき えいた]も、言葉少なに駆けて行った。

「あっ、オイ待て……うわっ!」

止めようと追いかけた御法川の眼前で、扉が無情に閉まる。

叩きつけるように開いた先に、3人はもういなかった。

「あいつら……!!」

御法川が怒りに震える。

「いいじゃないか、基絃! ジャンヌらしいあどけなさで!」

[ほが]らかに笑ってそう言ったのは、御法川の同期、2年の一ノ前衣音[いちのまえ いおん]だ。

ユニヴェール生らしからぬ丸くふとましい姿は、太く響き渡る声を追求した結果。彼は白雪のように美しかった見た目を捨てて、スノーボールのような体でオンリーワンを掴んだ。そんな究極の選択をする人間の話を、御法川はまともに聞く気にはなれない。

「司先輩、なんとか言ってやって下さいよ!」

訴えた相手はロードナイト3年、忍成 司[おしなり つかさ]

「んー……、そうねぇ……」

それを受けて、司はまろやかに微笑む。

優美な姿と豊かな歌唱力を持ち、組長、アルジャンヌ、そしてトレゾールの役目を一身に背負う司は、ロードナイトというクラスをそのまま描き出したかのような人物だ。

「でもこういうのって、人にあれこれ言われてやるよりも、自分でやる気を出してやらないことにはねぇ」

焦りばかりが募る御法川とは違い、司は落ち着いたもの。

「気負いすぎなのよ、基絃は。まだ始まったばかりじゃない、もっと肩の力を抜きなさい」

御法川は納得がいかず、いやいやと首を振る。

「始まったばかりだからこそ、しっかりやらないと……こんな状態のまま1年が過ぎたらどうするんですか」

「どうしましょ」

「『どうしましょ』じゃないでしょ!」

御法川が盛大にため息をつく。

「真面目な奴が1人でもいれば違うのに……」

「例えば?」

「ええ……? クォーツの立花、とか……。真面目そうだと思いますけど」

司がふーんと鼻を鳴らす。

「でも、あの子、舞台経験がないんでしょ? 美ツ騎だってそれでクォーツなんだから」

クォーツは舞台未経験者が多く配属されるクラス。司のお気に入り、クォーツの歌姫、白田美ツ騎もそれにあたる。

「例えばって訊いてきたのは司先輩なのに、真面目に返さないで下さいよ」

「だって基絃が真面目な顔して言うんだもの。クォーツ、ねぇ……」

司は稽古場備え付けのソファに腰掛け、ゆったりと足を組む。

「未経験者を多く固めて育成することには賛否両論あるらしいけれど」

丸テーブルの上にはスミレの砂糖漬け。司はそれを口に含み、舌先でほぐす。

「美ツ騎だってロードナイトに配属されるべきだったし」

「またそれですか」

「そのほうが美ツ騎のタメになったはずよ。それに……」

司がスミレの砂糖漬けをまたひとつ摘まみ上げ、じっと見つめる。

「舞台未経験者を多く固めた影響で、フミみたいな経験豊富で優秀な生徒を投入しなければいけなくなることもある」

76期生のトップをひた走るアルジャンヌ、高科更文。クォーツに配属されたことで、傍若無人に輝けた時代は確かにあった。

だからこそ、今、クォーツの顔として規律正しく先頭に立つ姿に思うところがある。

「それに、コクトみたいな生徒も生まれちゃうし。ほら、『アレ』」

御法川は 「ああ……」 と表情を曇らせた。

「根地先輩の『アレ』は、当時、相当な騒ぎになりましたからね」

「そのおかげで、弱体化していたクォーツは徐々に持ち直していったけど、それでもねぇ……」

司はスミレを口に含む。愛らしい見た目に反した独特な[にが]みが、スミレの香りと一緒に広がっていく。

「これだけ私たち76期があがいているのに、誰もアンバーを切り崩せない」

御法川は口を閉ざした。そこに感じる影がある。

「選りすぐりの才能が集まるアンバーだからこそ降り立った天才がいるわ。それがこれからのユニヴェールを作っていくのだとしたら……」

シーン9

刺すように静寂があった。

生徒たちは顔を上げることも出来ず、額に浮かんだ汗が頬を伝って涙のようにぽたりと落ちていく。

「よくそんな[つたな]い表現で宙為[ちゅうい]さんと同じアンバー生を名乗れるな」

断罪するように言い放ったのは、アンバー1年、ジャンヌの紙屋 写[かみや うつり]だった。

ジャンヌをやるために生まれたかのような容貌と肢体、それでいて、いっそ異様に思えるほどの強烈な存在感。強い自信とそれに見合った才能を持つ彼は、苛立たしげに舌を打つ。

「あんたたちがそんなんだから、宙為さんが稽古に参加して下さらないんだろうが!!」

殴りつけるような怒声に、アンバー生たちは体を震わせることしか出来ない。

「……ウツリ。先輩はもっと敬わないと」

ゆったりと穏やかに、諫めるように言ったのはアンバー1年、同じくジャンヌの百無客人[ももなし かくと]だった。

78期生の首席として当然のようにアンバーへと配属された彼の口元には、常に笑みが浮かんでいる。

百無は 「先輩方」 と撫でるように優しく語りかけた。

「才能がないのは重々承知していますから、田中右[たなかみぎ]先輩についていくのは到底無理でも、後輩の僕たちにはついてきてもらえませんか?」

[]るのはただの無慈悲。

入学して間もない2人は天才だった。その実力に在学生はすでに打ち砕かれ、足蹴[あしげ]にされるばかりだ。

しかし、哀しいことに彼らはとうの昔に慣れていた。

アンバーには『神様』がいる。

「わ、悪い……」

もはや握る[こぶし]もない。

絞り出すような声で謝罪する彼らに、紙屋の目が鋭く尖る。

「さっさと稽古に戻れよ。あの人が納得出来るものが作れるまで、やめんじゃねぇぞ」

年齢なんて関係ない。

いるのは弱者と強者だけ。

「ウツリ……それじゃあ一生休めませんよ?」

気遣う百無の言葉は何よりも無情だ。

「……あの人と同じ舞台に立つために、宙為さんの隣に並ぶために、俺はこんなところまで来たんだ。それを邪魔されてたまるか」

そう言って、紙屋は百無を睨みつける。

「……お前もだからなカクト」

「おや?」

敵意むき出しの表情で紙屋は言う。

「宙為さんのアルジャンヌになるのは、俺だ」

それに対して百無は、底知れない笑みを浮かべるだけ。

ここでは誰もがアンバーの『神様』を求めている。

シーン10

わずかに欠けた月が、夜のヴェールをまとった空に向かって、ためらうように上っていく。

月明かりは、ユニヴェール校舎から玉阪市を繋ぐ長い石階段に1人立つ彼の影を長く伸ばした。

「……」

アンバーのジャックエース、田中右宙為[たなかみぎ ちゅうい]

ユニヴェールに彗星のように現れた彼は、新人公演を皮切りに、たった1人でアンバーを頂点に導き、ユニヴェール生たちをねじ伏せてきた。

その才能は広く知れ渡り、今では海外からも注目されている。

だが、多くの称賛を浴びる彼の姿はどこまでも[]だった。

「……器」

抑揚のない低く暗い声が、それでも渇望するように呟く。

「透明な器――」

影が揺れる。

「……『立花希佐』、か」

シーン11

「……『子どもの頃、建国100周年を祝うパレードを見に城まで来たことがありました!』」

明かりを落としたクォーツの稽古場。

そこに無邪気な少女の姿があった。

「『初めて見るきらびやかな世界、華々しい人の数々……。目移りする私に、ひときわ輝く存在が飛びこんできました』」

過去を振り返るように懐かしんで、しかし思い出の中の光景に興奮を抑えきれず、早口で。

「『それが、当時は王子様だった王様です』」

全ての想いを込めるように、熱く、強く。

「『りりしくて、聡明そうで、それでいて、優しい瞳を』……。……」

だが、そこで少女は黙り込んだ。

まとっていた熱が衣装を脱ぐように消え、1人のユニヴェール生が姿を見せる。

立花希佐がそこに立つ。

「……違う」

希佐は床に置いていた、新人公演の台本を拾い上げる。そして自分のセリフを視線でなぞった。

「……ここは、私が演じる娘が、王様に想いを寄せるきっかけになった出来事を、王様本人に語るシーンだけど……」

情景を思い浮かべるように、希佐は呟く。

「王様に気持ちを伝えるよりも、自分の思い出にもっと深く入っていくほうが、夢見がちな娘らしいかも……。それこそ、周りの人たちを置いてけぼりにするような感じで……」

台本を手に持ったまま、その光景をイメージして、再び熱をまとう。

「『りりしくて……聡明そうで………!』……」

しかしまたすぐに動きを止めた。鏡に映る自分。

「……ダメだ、ジャンヌじゃない」

希佐は手の甲をぐっと額に押しつける。

「これじゃあ、ただの女の子だ」

希佐は思い描く。

クォーツのアルジャンヌ、フミが踊る姿を。

トレゾール、白田が歌う姿を。

必死で、それでもみずみずしくジャンヌを演じる世長の姿を。

そして、クラスのジャンヌ生たちを。

真似るように体を動かし、そこに潜む自身との性差を見つけ、潰していく。

「……」

希佐はまた台本を見る。

「『初めて見るきらびやかな世界、華々しい人の数々』……か」

そのセリフに浮かぶ情景がある。

ユニヴェールの至宝と呼ばれた、兄、立花継希[たちばな つき]が立つ舞台。

華やかで、美しく、まるで夢のような舞台。

それが、ここ。

男性だけで歌劇の舞台を作るユニヴェール歌劇学校。

その場所に、女である自分がいる。

――お前、ユニヴェールに入れ。

そう言ったのは、ユニヴェール歌劇学校の校長、中座秋吏だった。

「……」

ユニヴェールを諦めなければいけない理由を無数に知っている。それを自分に突きつけて諦めさせようとしてきたのだから。

それはそのまま、自分が女だとバレた時に浴びる言葉でもある。

だったら何故ここにいると人は問うだろう。

「……『たとえ、叶わなくてもかまわない』」

希佐はそっと呟く。

台本のセリフではない。かつて兄が舞台の上で放った言葉だ。それが強い輝きを放って希佐の心を捉えた。

ただただ好きになった。ユニヴェールの歌劇を。

あの舞台に立ちたいと思った。兄と同じように。

ユニヴェールに代わるものなんて、この世になにひとつない。

この場所じゃなければ意味がない。

しかし想うだけなら許されて、叶えようとすれば罪になる。

いくつかの条件とともにチャンスを与えてくれたのは、中座秋吏だ。

しかし、伸ばされた手を取ったのは紛れもない自分。

全ての責任は、夢と一緒に握りしめたこの手の中にある。

「……[ゆる]されるはずがない」

この場所で、温かい感情に触れるたび、形を歪めた報いを覚悟する。

「『それでも僕は』……」

かつての兄のセリフを口に、希佐は踊りだす。華やかに人々の心を掴み、離さない孤高なあの人のように。

それはすぐに、蒼天のように爽やかで、人々をあたたかく照らすジャックのダンスに切り替わった。

次は、遠い日をなぞるような、密やかでいとおしいジャンヌのダンス。

ステップを踏むたび、ジャックに、ジャンヌへ生まれかわり、自身の才能を試す。

言葉に出来ない思いは、全て歌の中。

そして最後には、宵闇のような静寂。

「……」

鏡の中には希佐の姿が映っている。

その姿は果たして少女か少年か。

「……『それでも僕は』」

全てはユニヴェールの舞台に立つため。

「『夢を選ぶ』」

ユニヴェール歌劇学校。

立花希佐はこの場所で歌い踊り演じ続ける。